一瞬、世界が止まった。“熱愛” のニュースで、SNSに張り付いた

“熱愛” の2文字を見つけたのは、夕食を食べ終えた午後9時前。
ネットニュースで、日常の一部といっても過言ではない人の交際報道が流れていた。

一瞬、世界が止まったかと思った。呼吸も忘れていたかもしれない。週刊誌とは無縁そうなクリーンなイメージが先行していたから、考えたこともなかった文字列がうまく頭に入らない。目に入った単語をつなげてようやく概要を理解したあと、昂ぶる気持ちのままにTwitterをチェックし始めた。誰もが「開いた口が塞がらない」といった様子で、ポジティブでもネガティブでもない驚きの声で溢れていたことを覚えている。

報道を見かけてから30分ほど経った頃、毎日欠かさずみていた動画が投稿されていた。心無い言葉が浴びせられないか不安に思ったが、「いつも通りの動画を見て、自分が好きだったものを思い出した」とか、どんな日も寄り添ってくれた安心感を再確認しているような温かいコメントばかりだった。監視するようにSNSに張り付いていたが、ホッと一息つけた瞬間だった。
それからはファンも落ち着きを取り戻し、波が引くようにタイムラインは静かになった。「週刊誌は気になるけど買ったら思うツボだよね」と不買運動を呼びかけるなど、謙虚で賢いあの人達のファンらしい言葉を目にするようになった。

これが、あの日私が目にしたもの。いわゆる「ガチ恋」の悲鳴も、衝撃以上の感情を顕にするツイートも、ましてや週刊誌以外の誰かを責める言葉なんて、ひとつも目に入らなかった。それは、思い返せば冷静な言葉で、自分たちを制御していたのかもしれない。

やがて訪れた、いつもと変わらない日常。でも自分の気持ちだけが違う

数日後には日常が戻ったかのように見え、変わらず動画は投稿された。夕飯を済ませると、スマホを操作する指は無意識に動画サイトを開く。いつもと変わらない日常、いつもと変わらないオープニング。しかし、ただ一つ、自分の気持ちだけが変わってしまった。見慣れた笑顔で笑っているけれど、この人は誰なんだろう?と思う自分がいる。別にタレントに限った話ではなく、尊敬する上司がゴマをすっている姿をみた、みたいな、知人の新しい一面を知ってしまった苦い気持ちのような。クリーンであるという先入観が生み出した、静かなざわめき。

ちょっと待ってよ、騒動は落ち着かせたじゃない。みんなで励まし合って、もちろん衝撃だったけど、それと私達が彼らを好きであることは別問題だよね!って言い合ったでしょう?大好きな人にはぜひとも幸せになってほしいのに、絶対にSNSでは言わないけど、どす黒い感情が芽生えてしまう。幸せになってほしいのは本心なのに、勝手に裏切られたと感じて傷ついてしまえとも思う。望んだって無駄なこと、あちらにはそんな義理はないと思いながら、全部受け止めてほしいと思うのだ。今起きていること全てが彼の目に触れて、少しでも傷ついてしまえばいいのに、と思った。

SNS世代の私達は必死に戦ったが、完全修復には一歩及ばなかった

おそらくあの日、ファンが誰の目にも触れる場所で気持ちを明かさなかったことは得策だった。それは彼らを幸せにしないから。彼らがいつもそうするように、落ち着いて、賢く最善の対応を選ぼうとした。
しかし、それ以外の場所では吐き出していいよと誰が言えただろう。冷静な対応を呼びかけることで、自分に言い聞かせることで、湧き上がる感情を圧し殺してはいなかっただろうか。その結果、少なくとも私は彼らをどう見たら良いのか分からなくなった。喧嘩のあと、謝りもせず仲が戻ったみたいに後味が悪い。SNS世代と称される私達は必死に戦ったが、完全修復には一歩及ばなかった。こうして私は、毎日を彩ってくれた時間を、ひとつ失った。