春ですね。桜がもうそろそろ咲いてきそうです。周りはみんな花粉症でクシュンクシュン言っております。
進学、就職などで社会の人々がゾロゾロとうごめき出し、蝶のように羽ばたいていく季節。
もとの土台からしてぬかるんでいて、ぶつかる壁すら建造されなかったと言った方が正しいかもしれない私からすると「あ、また追い抜かれた。もう終わりだ」と思うことが多くなる。ルサンチマンの塊ですこと。

私には1人弟がおり、弟は同じ自閉症スペクトラムでも友達と円滑にコミュニケーションをとり、全日制高校を卒業し、私がとれなかった免許の取得まで行おうとしている。
心からおめでたいと思っていて、カルバンクラインのキーケースを専門学校の進学祝いにと買ってあげたのに、この曇天のようなモヤモヤした感情をちょっぴりキーケースに込めてプレゼントしてしまったような気がして恐ろしい。

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一般的な意味合いでのキャリアという言葉とは10000kmくらいかけ離れた人生を歩んでいる。

厚生労働省が提唱するキャリアの概念として、狭義のキャリアは職業、職務の連鎖。広義のキャリアは生き方、人生、経験とある。狭義のキャリアの概念が世に広まって定着しているので、労働という面でしかキャリアが語られることはない。しかし、広義のキャリアという意味合いで言えば、私はめっちゃ良いキャリアを送っている。

私を守ってくれる人たちに囲まれて、社会から逃げ続け自分の好きなことばかりしている。病気や障害なんてホントに辛い状況の人からしたらきっと言い訳に過ぎないし、社会的な生産活動から逃げているだけなのかもしれない。
毎日感情のアップダウンが激しくてまるで人間ジェットコースターのような女だ。こんな人間が社会に出ては、迷惑をかけるだけだとも思う。

せっかくうつの退院後の社会復帰で通い始めたB型就労支援施設も、完璧主義な私にとっては施設の粗や利用者に対しての雑さが見え始め嫌になり、「小説を書きたい」と言って1ヶ月以上休んでいる。実際小説は完成し、ある文学賞に応募ができた。

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もはや実家は、社会にとって座敷牢のような機能を果たしているのだろう。
有り余る時間の中で、10代の頃の私は一体何を思い何を夢見て生きていたのだろうと頭の中でタイムトリップする。こいついつもタイムトリップしてんな。
高校生の頃の私は誰かと積極的に話すわけでもないし何かアクションを起こすわけでもなく、帰宅後に1人で「理想の彼氏」を条件とイラスト付きで書いていた。おそろしい。

思い出すと、ストライクゾーンがゲキ狭すぎてありえないだろうという彼氏像だ。
覚えている限りで書くと、細身、色白、黒髪、首が綺麗、目頭が切れている、メガネが似合う文学少年、エログロナンセンスな漫画に出てきそうな耽美な感じ、心は綺麗なのにドSなど。妄想も程々にしろと突っ込みたくなる。

でも、時を経て25歳の私は見た目も中身も全く思い通りの相手に出会ってしまった。図らずして、しらずしらずのうちにあの時の願いが約8年越しに叶っていた。
先日のデートで一緒に選んだ昭和の文豪のような丸メガネをかけた彼氏を見た際、目に映った光景や状況が理想的すぎて頭のてっぺんからつま先まで電流が走ったようになった。これが感電というものでしょうか。
ハイブランドの物を手に入れた時よりも遥かに、気持ちが昂った。これがずっと「また」見たかったものだと、まるで前世の光景を呼び戻したかのように感じた。スピリチュアルは信じない派なのに、そんなことがもしも本当にあったのなら、素敵だなと思う。

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当時から仕事に対する夢や目標はなかったから、他の夢も「毎日お散歩する」とか「可愛いコスメや服を買う」とか「フルーツを食べる生活」などだった。お伽話の登場人物かしら?
かと言って子供を産みたいかと言われると、それ相応の母性は育っていない。
年相応な、もっとハングリー精神のある夢を持てば今頃もっと違っていたのかなぁと思うも、幸せのハードルが低くていいのかもしれないとも思う

社会からこぼれ落ちてしまう人は一定数いると思うから伝えたいのだけど、「仕事で人の役に立とう」とか「社会の中で役割を得よう」などとは必ずしも考えなくても良いのだと思う。だってはなから向いてないんだもの。どの時代もそういう人っているもんだ。
「あそこに行きたい」「アレを食べたい」「アレを買いたい」だけで生命をなんとかジリジリ延長している人生だけれど、案外働いていてもみんなそんなもんなのかもしれない。
私の生活は、人から見たらコジコジのように遊んで食べて家事して寝るだけの生活。

幸せは案外近くに転がっていて、その手の届く範囲の中でやっていけば誰も文句は言わない。言わせない。支えてくれる人は家族であったり、恋人であったり、友達であったり、福祉であったりと様々だと思う。
遠い世界の話ばかり見て、どうしても感謝を忘れて不満ばかりこぼしてしまいがちになるけれど、身近な幸せに感謝しながら生きていきたい。
これも一つのウェルビーイングでしょう?