母のようにならないと決めてたけど、今はこの損ばかりの人生がいい

いつも他人に優しすぎる母。小さい頃は友だちにおやつを譲りすぎて、自分の分がなくなってしまった。高校生のときには、推薦を狙えるはずだった専門学校を頭の良い友だちに教えてあげたら、その子に推薦枠を取られてしまった。母のそんな思い出話を聞いて、私は呆れてしまった。
損してばかりで可哀想。もっと自分のことを優先すればいいのに。数年前に亡くなった祖母も生前、母に「そんなおっとりしてるからだろ」「本当に勿体ないことをしたね」と、私と同じように呆れていた。
私は、絶対に母のようになりたくなかった。だから、自分が損をしないような生き方をしようと決めた。
そのはずなのに、なぜだろう……。母ほどではないけれど、私も色々と損をしている気がする。
横断歩道は青だけど、曲がる車がいたので数台に道を譲っていたら、いつの間にか赤になってしまう。学生時代は、宿題を忘れたり問題の答えが分からなかったりする人たちを、結構な頻度で助けた覚えがある。私は何もしてもらえないし、得することなんてないのに。
私は、周りの友だちが羨ましい。自己中心的ではないけれど、自分の好きなように生きている。誰かのために自分だけが損をするようなことはまったくせず、自分軸をしっかり持って行動している。
みんな私より何歩も先を行ってしまう。母からの遺伝なのか、こういう運命なのか。一体何なのか分からないけれど「結局、私も母と同じなのか」と、ため息をつきながら過ごしてきた。
空気を読めるせいで、自分の気持ちや言葉を飲み込んで我慢してしまう。周りがよく見えるせいで、困っている人やその状況に気づいてしまう。知らない誰かにでさえ「何とかしなきゃ」と思い、無意識に自分の身体が動いてしまう。「何でこんなことばかりしているんだろう」と、損得ばかり考えて不満タラタラ。
そんな日々だったけれど、少し前から何かが変わってきている感じがする。
友人たちからは「あのときは本当にありがとう」とお礼を言われたり、「いつもすぐに気づいてすごいよね」と尊敬されたりするようになった。先日は「みちるの優しさや気持ちが嬉しかった」と、ある人から大切な品物をいただいた。
私が体調を崩したり落ち込んだりしているときは、気づいて声を掛けてくれたり、ちょっとしたおやつを持ってきたりしてくれる人もいる。
今までしてきたことが、別のかたちでちょっとずつ自分に返ってきている。あんなに母のようになりたくないと思っていたのに、今では自分の行いは正しかったのだと考えるようになっている。それに私の周りにも、誰かのために行動する人が増えた気がする。
もしかしたら、優しさの連鎖なのかもしれない。母みたいな生き方も案外悪くない。
困っている人を見て、勝手に身体が動いてしまうこと。きっと、目の前の誰かを思う気持ちに突き動かされるのだろう。こちらが助けても、いざというときに力になってもらえないこともあるけれど。自慢げに「自分がやった」と、手柄横取りみたいなことをしてくる人もいるけれど。
まったく気にしないと言ったら嘘になるけれど、それでいいと思っている。良くも悪くも、自分のしたことは必ず返ってくるから。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。