男は切符売り場と女性の間で逡巡した後、女性を選んだ。その瞬間、私はこの二人が他人だと確信した。

違和感を覚えたのは数分前のことだった。地下鉄から私鉄に乗り換えるためにエスカレーターに乗っていたところ、斜め前方に女性の背に密着して立つ男の姿が視界に入った。

男は身長百六十くらいで、辛子色のセーターにゼブラ柄のバッグを持っており、十九時台の駅構内にもかかわらず真黒なサングラスをかけている。一方、前に立っているのは水色のスカートにピンクのヒールを履いた女性で、仕事を離れていち早く自分の世界に入るべく、スマホに目を落としていた。

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エスカレーターを降りた後も二人は一メートルも距離を開けずに歩いていたが、女性は振り返って男と会話することも歩幅をあわせる素振りも見せずに、スマホに目を落としたまま私鉄の改札に進んでいく。

私も同じ方向に進みながら、通勤や通学、観光で大勢の人が行きかう駅で女性に身を重ねて歩く辛子色のセーターを眺めていたが、次第に違和感が湧いてきた。

だが、逆に親兄弟など慣れ親しんだ関係という可能性もある。自分の思い違いだという結論を出そうとしたところで切符売り場に差し掛かり、二人が他人だと確信することになった。

女性がICカードで改札を抜けると男も続いて改札になにかをタッチしたが、すかさずチャイムが鳴った。残高不足だが女性の背に張りついてホームに入る。

私は定期券でその後に続いた。一番ホームに間もなく発車する電車が停まっていたが、ここまで来たらことの顛末を見届けないわけにはいかない。衝動に突き動かされるように男の背を追って二番ホームに入った。
女性はやってきた電車に乗ってドアの方を向くと、発車までの時間をつぶすべくスマホに目を落とした。

女性の背後に立つ男を後ろから眺めて、改めて毛色が違うと感じる。

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一日に数千人以上の人間が移動する街は清濁入り混じっていた。年齢や職業の数だけ悩みも苦しみもある。

仕事にありつけない人間もいれば過重労働に苦しむ人間もいる。肉体労働で身体を壊す人もいれば閉鎖的な職場の人間関係で精神を病む人もいる。帳簿の数字があわない日もあれば、おかしな客が来る日もあるだろう。自分が大切にしていたものを失う日も、勝つ日も負ける日もあるはずだ。

憂き世で感情を持って生きるのは苦しく、魔が差すこともあるかもしれないが、それでもダメなものはダメだ。

その時、男がスマホに目を落としながらこちらに身体を向けてきた。サングラスはレンズが目の横に回りこむデザインで、五十センチの距離を切って対峙している今でも目の表情を見ることはできなかったが、男がこちらに気づいていることは一目瞭然だ。
掴み合いになれば女の私が不利だろう。訴えれば勝てるが、それでは時すでに遅しというものだった。

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男が一歩こちらに踏み出すと同時に、私は女性の前に回ってすいませんと声をかけた。

「後ろの人は連れですか?」

女性はイヤホンを外してそっと振り返った後、怯えた顔でこちらを向いた。

「いいえ」

「エスカレーターからずっとついて来てるから、車両を乗り換えた方がいいかもしれません」

女性は何度も頷いて先頭車両の方に向かった。私も隣の車両に移動して吊革に掴まった後、元いた車両を振り返った。
男がこちらを睨んでいた。サングラスの向こうの目は依然として見えなかったが、口もとに力をこめて拳を握りしめている姿に異様なものを感じ、私はもう一つ向こうの車両に移動した。

時間差で心臓が痛いほどに鳴り出し、次々と乗りこんでくる乗客に姿が紛れることを祈りながら、自分の行動は間違っていなかったはずだと内観した。安全な場所に女性を逃がすという草食動物的な解決方法ではあったが、幾千の人々が行き交う街の中で一人の女性を助けられたと思うと少し気持ちが報われた。
私は窓の外に流れる街並みを眺めながら、都会で生きる女性達が安全に歩める世の中になることを切望した。