この世で1番近い存在とも言える「お母さん」。おぎゃあと産声を上げたときからずっと隣にいる。もっと言えば、生まれる前からずっと一緒。同じ親でも「お父さん」とはまたちょっと違う関係性なのが不思議な存在。

わたしは「お母さん」と聞くと、ある人のことを思い出す。それはわたしが大学に入学したばかりの話だ。

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わたしは大学の軽音サークルで、ある女の子と出会った。(ここでの名前は「みいちゃん」としておく)
みいちゃんは笑いのツボがわたしとよく似ていたので、一緒にいてとても心地がよかった。みいちゃんと話しているのが本当に楽しかった。1つだけわたしとみいちゃんの違うところがあるとしたら、「お母さんの話をよくする」ということだった。

京都旅行で食べたあんみつに乗っているあんこを見て「お母さんはね、粒あんが食べられないの。こしあんしか食べられないんだよ」と言う。また、野良猫を見て「お母さんはね、猫はあんまり好きじゃないの。でもね、犬は大好きなんだよ」と言う。

わたしは、みいちゃんがお母さんの話をするたびに「ふうん、そうなんだね」と、それっぽい相槌を打った。わたしはあんまり友達に自分の親のことを言ったことがなかった。別に、他人の親のことを聞かされたとしても興味も関心も無いだろうなと思っていたからだ。「きっとみいちゃんは子どもの頃からお母さんと仲良しなんだ」と、それぐらいにしか思っていなかった。

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ある日、わたしは講義の空き時間があったので、サークルの友達と一緒に大学近くのカフェに行くことになった。そこでたまたま友達が注文したあんみつを見て、わたしはふと思い出した。「ねえねえ、みいちゃんのお母さんってね、粒あんが食べられないんだって。だからね、今でもあんこはこしあんしか食べられないらしいよ」。わたしは目の前であんみつを頬張る友達に言った。

友達は、あんみつの味をじっくりと確かめた後にこう言った。「え、でもさ、みいちゃんのお母さんって確か大学に入学する前に亡くなったはずだよ」。わたしは頭が真っ白になって、友達の言った言葉を疑った。みいちゃんの話すお母さんの話は、つい昨日の出来事のような、そんな感じがした。「みいちゃんのお母さん、もういないんだ」。わたしはその日、そのことで頭がいっぱいだった。

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次にみいちゃんと会ったのは、1週間ほど経ってからだった。いつも話題に困ることなんか無いのに、こんなときはかける言葉が見つからない。みいちゃんはこれっぽっちも気にしてなさそうだけれど、わたしにとってはこの沈黙がとても痛かった。

先に沈黙を破ったのはみいちゃんだった。「もうすぐゴールデンウィークだけどさ、どっか行くの?」
「お母さんと映画を見に行くよ」。わたしは正直に自分の予定を言った。
「わたしもお母さんと映画見に行きたいな」。みいちゃんが言う。
わたしは胸の中のモヤモヤに耐えられず、思い切って聞いてみた。
「ねえ、あのさ、みいちゃんのお母さんってさ…」。
「うん、亡くなってるよ」。意外とあっさりした返答にわたしは拍子抜けした。
「でもね、今でも大好きなんだよ」。嬉しそうに微笑みながらみいちゃんは言った。
わたしは「そうなんだ」とだけ言ってこの会話は終わった。



あれから10年が経った。ほんの小さな出来事だけれど、この会話はわたしにとって忘れがたい記憶となっている。今になって思うと、みいちゃんがお母さんの話をするのは、お母さんの存在をずっと忘れたくないからだったのかもしれない。

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「人が本当に亡くなるときは、誰かに忘れられたとき」

わたしは過去にこんな言葉を聞いたことがある。きっと、みいちゃんもお母さんのことをいつまでも忘れないように頑張っていたんだよね。

大学を卒業してからは、みいちゃんに会うことは無くなった。みいちゃんは今、一体どこで何をしているだろう。もしも、またみいちゃんに会うことがあったら、きっとお母さんの話をしてくれるだろう。そしたら、わたしは彼女にこう言いたい。

「さすが、みいちゃんのお母さんだね」。