迷ったら全部やる、をモットーに出来ていたのは17までで、18の冬の大きな岐路では “何かを選ばない”ということをする必要があった。やるかやらないかではなく、どちらに行くか。2つの大学に通うことはできないし、2つの学部に行くことだってできない、制度的に。だから、どちらかを選んで、他の全てを選ばない、ということをせねばならない。今振り返っても、18歳にはなかなか酷で難しい選択だと思ったりはするけれど、それが制度なのだから仕方がない。

◎          ◎ 

当時の日記には、至る所に、選択に関するどんな名言も今の私には響かない、という趣旨の文言が書かれている。
自分が選んだ道ならどんなものでも正解、選択は自分で正解にするもの、etc…
確かに3年間を重ねた今の私にも響かないが、日記を書いていた私には若干思春期も混ざっていたのだろう。だけど、当時の、選ぶことができない手をすり抜けていく道に対する切実な痛みには、深々と頷きたくもなる。

今振り返ってみれば、視野が狭窄だったのだと言えるといえば言える。あの時医学部に行かなかったけれど今の私にはまだ医者になる道は残っているし、あの時行かなかった大学のゼミに今の私は通っている。でも、当時の私にとって、選ばれなかった道は、生涯選ぶことのできない道であり、そこには大きくて無視しがたい未練が詰まっていたのだ。そんなことを悩みながら電車の外を眺めていた私の顔は、さぞ痛ましかったに違いない。

◎          ◎ 

選択に関する名言は、名言として人口に膾炙しているだけあって、確かに今の私は下した全ての選択を正しく思っている。私は18の冬に選んだ道をその後の歩みで自分で正解にしたし、あの時にあれだけの痛みと共に選び抜いたからその後がどうであれ、正解であることは決まっていたのだとも言える。苦味のある後悔はあれど、私は胸を張って、当時の私は正解だったということができる。名言は名言なだけある。

それでも私には響かない名言が示唆するところはきっと、選ばれた道も選ばれなかった道も、どちらも私たち自身の一部であり、その全てが私たちの人生を構成する重要な要素である、ということなのだろう。選んだ道で得たもの、学び、経験したことは、決して選ばなかった道の影に隠れるものではない。だから、どちらをどう選ぼうと、選ばれなかったものは単に切り捨てられる訳ではないという点で、それは常に正しく常にそれで良いのだ。
そんなことを思ったとて、岐路に立たされた私には、様々な重みが押し寄せていることだろうけれども。

◎          ◎ 

しばらくすれば私は、また新たな岐路に立たされることだろう。大学を卒業するころには、職を選ばねばならない。キャリアの途中でも多くの選択肢に溢れていることだろう。そしてそのうちのいくつかは、迷ったら全部やるではこぼれ落ちる性質を帯びていることと思う。

だが一つだけ、18の選択を通して私は知っていることがある。選ばなかった道に対する後悔は、人生の価値を決して減じるものではないということだ。
すべての選択は、どのように進むかによって意味を持ち、選ばなかった道は、選んだ道をより豊かにする背景となる。たとえば、医学部に行かなかったことが、別の形での救いをもたらしたかもしれないし、今の私が持っている洞察や感受性は、その選択から生まれたものかもしれない。
選択は終わりではなく、始まりであり、選ばれなかった道すらも、選んだ道であるのだ。

そんなことを、18の冬の私を思い返して考え、次に岐路に立たされる私に、託すように思う。