空がどんよりと灰色で、今にも雨が降りだしそうな天気の日が好きだった。広い部屋より狭い部屋、部屋の真ん中より壁のそばが落ち着くという感覚に近いかもしれない。
厚い布団のような雲が空を覆って、この世界の境界線をきちんと示してくれる。遮るものが何もなく、どこまで続いているかわからない大空の下では、とたんに自分の日常と目の前の生活が色褪せる。広い青空の下で、永遠に続く地獄に囚われている気になるのだ。
母と2人きりで過ごした実家での時間は、世界一明るく「温かな場所」
わたしの家族は、父と母、姉が2人の5人家族だった。物心ついた頃から父母は不仲で、おまけに父は出張でほとんど家にいなかった。母は元から強い人ではなかったから、子供3人の面倒を1人でみる生活に疲弊し、余計に神経を高ぶらせた。そのため、姉2人も家に寄り付かず、早々に自立してそれぞれの生活をしていたのだ。
小学校に入ったあたりから長い間、がらんとした家に母と2人、冷え冷えとした暗い家で生活をしていた。わたしが家を離れなかったのは、単に母を守らなければと思っていたからだ。
母曰く、自身の人生は困難に囲まれた悲劇的なものだったということだ。卑屈に満ちた言葉を幼い頃から聞いていると、やはり世界は敵に満ち、苦しく怖く恐ろしいものだという認識になるものだ。例に漏れず、幼少のわたしは、母と2人きりのこの家の外に出れば、未知なる世界が、恐ろしく意地悪な攻撃を仕掛けてくるものだと思い込んでいた。
そんな生活の中で、空を埋める分厚い灰色の雲は、世界をギュッと圧縮しているような感じがして、安心感を覚えさせた。窓の外の景色にグレーのフィルターが1枚掛けられて、いつもは暗く感じる隙間風の吹くリビングが、世界一明るく温かな場所に感じられた。
世界中でまるでそこだけが明るく灯され、幸せの中心にいるようだった。母と2人、温かい湯のみを掌で包んでぼーっとする。そんな休日なら尚更好きだった。
生きていくために外に出て、見る世界も「自分」も変わっていく
成人し、働きに出るようになっても、相変わらず、もしくは今まで以上に、母を困難まみれの寂しい場所に置いていかないようにと足しげく実家に通った。
母を置いて、1人だけ幸せになることへの罪悪感がきっとそうさせていたのだと、今なら分かる。
年齢と共に、生きていくために外に出て、世界を知り、自分も変わっていく。広がる世界、未知なる物事、体験。世界は、そんなに悪くないものだと思い始める。家の外にも居心地のいい場所があるのだと知る。
お酒を飲み始めて、意外と自分は初めての人とでも話せるのだと気づく。人と話して世界が広がる。晴れきった空の下、広がる世界の果てまで、そこまではいかなくても、いろんな物事に触れてみたいと思うようになる。
ただ、鼠色の雲が空を侵食してくると、母の顔を見に行かなければと手帳を開くのだった。
先日、職場で出会った人と結婚が決まった。式の日の朝、集まった姉2人と両親は、ちゃんと家族の顔をしていた。両家並んで写った集合写真の母はいい表情だった。その微笑みを見て、自分はもう巣立っていたのだなと気付いた。
母からしたら、とうの昔に巣から追い出したつもりだったのかもしれなかった。初めからヒビが入って、今にも壊れそうだったから、壊れないように。離れそうだったから、離れないように。姉にも声をかけ「実家に集まろう」と「これ以上は崩すまい」と必死に抗っていたつもりだったのである。
父も母も2人の姉も…それぞれの「生活」をして、生きているんだ
しかし、きっとそんな陰気臭い曇り空の下で、電灯の前にじっと縮こまって、暖をとろうとしていたのはわたしだけだったのだろう。
それぞれがそれぞれの生活をして、生きている。晴れていようが、雨が降っていようが、それぞれがなんやかんや自分の人生を歩いてきているのだった。この考えに至ったこともまた、わたしにとっては新しい景色との出会いとなった。
今でも、曇り空のちょっと暗い日は、世界に包み込まれているようで安心する。そして、母は、みんなは元気だろうかと時々思ったりもする。
でも、そんなに心配することはないのだ。わたしが変わったように、みんな変化しながら、それなりに生きているのだ。
そして、今度は明るい日差しを背負って、たまに顔を見せに行ったらいい。考えてみたら、罪悪感と義務感で通われるよりも、たまに気持ちのいい笑顔で会いに来る方がよっぽど嬉しいではないか。
空を見上げたアラサーがこんなことを考えているなんて、すれ違う人々には思いもよらないに決まっているが、わたしがこの感覚を失うことはきっとないだろう。