私はいつも岐路に立つということが無く、選択の余地の無いままこの人生を送ってきた。

しかし、よくよく考えてみると、大学の専攻だけは、Aでもいいし、Bでもいいという状況の中で自分で選んだと思う。

私は大学の文学部に入学し、日本文学を学んでいた。1年生時は、日本文学、日本語学、伝承文学と、大学における日本文学の基本を総ざらいした。もともと、『源氏物語』を学びたくて入学したため、1年生時に既に平安文学のゼミに所属していた。よって、2年生時も演習と呼ばれるゼミ形式の授業は、『源氏物語』を扱う授業を選択した。

しかし、3年生時の演習では、近現代文学の演習を選んだ。何故か。先生が面白かったからである。

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その近現代文学を教えている先生は、たまたま1年生の時の担任の先生で、1年生における一番基本の授業を担当していた。それがすごく面白かったのだ。ロラン・バルトやテクスト論など、知らないことが盛り沢山で、先生の口頭説明を聞き逃すまいと必死にノートにメモをした。

先生「『山月記』って皆さん高校で習ったでしょう。虎になった李徴(りちょう)の告白を聞く時、袁傪(えんさん)はずっと立ちっぱなしですよねえ。僕が李徴だったら、喋る前にまず『座ってくれたまえ』と袁傪に言いますね」

先生の講義は驚きの連続だった。

私は、先生の授業の最初のレポートで1点/10点を取ったことがある。それもおまけの1点で。小学校から作文を書いては選ばれていたし、中学校の時は東京都知事賞も貰った。国語にはある程度の自負があったのに、1点……。もはや笑いが込み上げてきた。

それからは、最初のレポートをもう一度提出し、さらにもう一度提出した。そして、前期末のレポートでは評価Aを貰った。

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近現代文学の授業で思考力を養っていく内に、同時期に出席していた平安文学のゼミが単調に思えてきた。平安文学のゼミは本格的なもので、資料集めを綿密に行っていた。しかし、当時の私は「平安文学研究って、資料集めに終わるんだ。大したことないな」と生意気なことを思っていた。

それでも、すぐには平安文学を切ることはできなかった。一番偉い先生は指導力に定評があり、その弟子である先生は、私の高校時代の国語の先生で、その先生がいたからこそ母校に入学したようなものだった。

だが、実際に、平安文学と近現代文学を両方学ぶことは、キャパシティ的に不可能だった。3年生時は近現代文学の演習と、平安文学のゼミの時間が重なってしまい、平安文学のゼミに遅れて入室していた。

平安文学に触れる時間が減り、近現代文学の演習は益々濃密で楽しい時間になり、卒業論文は近現代文学で書くと決め、平安文学のゼミも辞めた。3年生の秋だった。

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近現代文学専攻という選択を正解にできたことは、文章力がついたことだ。平安文学のゼミの発表資料作りもハードだったが、そのハードさは、資料集めのハードさだった。

だが、近現代文学演習の発表資料は、「そのカッコは何のカッコですか?」と第1回目の授業で院生に指摘されるように、発表資料の一言一句を丹念に論理的に突き詰めて考えるよう指導されたため、卒業時には、納得のいく卒業論文が書けた。

平安文学を選ばなかったことへの後悔は、予備校で古文を教えらないことだ。もともと、予備校で古文を教えるのに適しているのは、日本語学専攻といって、平安時代の古典文法で卒業論文を書いたような人だから、あのまま平安文学のゼミに入っていたからといって、古文の先生として活躍できたかは怪しい。

だが、近現代文学専攻よりかはよかったと思う。ちなみに、大学の近現代文学と予備校の現代文は全く別物なので教えられないのだ。トホホ。