産休直前までしっかり働き、妊婦健診の合間に小さな服を水通ししたり、ベビーベッドの配置を考える。自宅のリビングでノンカフェインのハーブティーを飲んで、大きくなったお腹をさすりながら童謡を歌ってみたり、話しかけてみたり。そんな私を不思議そうな顔で見つめるペットのワンコに、私は思わず呟く。「もうすぐ赤ちゃんが生まれるんだよ」……そんなマタニティライフを夢見ていた。
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現実は残酷だった。
出産予定日までまだ3ヶ月以上もあるのに切迫早産の診断を受けた私は、会社の誰にも挨拶すら出来ぬまま、休職せざるを得なくなってしまった。
私に出来ることは、病院に入院して24時間点滴で子宮収縮を抑制する薬を体に投与することと、極力ベッドに横になりお腹に圧をかけないことの2つだけだった。退院日は未定。経過次第で家に帰れるのか、それとも産むまで帰れないのかそれすら分からなかったので、費用の見通しがたたない個室ではなく、大部屋に入院することに決めた。
入院初日の夜、私は初めて泣いた。
仕事の帰り道、満員電車の中でお腹が固く張っていることには随分前から気付いていた。でも初めての妊娠で、それが異常なことなのだとは分からなかったのだ。妊婦は皆そうなのだと思い込んでいた。
薬の副作用で手が震え、心臓が口から飛び出そうなほど動悸がする。子宮が収縮してしまうので、お腹は極力さすらないようにと指導を受けた。これ以上お腹に力が入らないようにしたいのに、赤ちゃんに申し訳なくて、心細くて、不安で、私に母親になる資格はないのではと感じて、同室の患者さんの迷惑にならないように声を殺して泣いた。
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4人部屋の病室は、私が入院したことで満床になった。それぞれのベッドはカーテンで仕切られており、感染症対策ということもあって常にそれは閉じられたままだった。顔は知らないけれど、看護師さんやお医者さんと話している内容は自分も含めて筒抜けなので、私は入院して数日で「ルームメイト」たちの病状を把握することになった。
Aさんは妊娠高血圧症候群で、常に頭痛や分娩リスクと闘っている人。Bさんは重度妊娠悪阻で固形のご飯が全く食べられない人。 Cさんは外国籍で日本語が全く話せず、こちらも重度妊娠悪阻で、水を受け付けなくなった人。そして、切迫早産の私…。
同じ病室、同じ妊婦とはいえ、出てくる食事もそれぞれの病状に合わせて異なっていた。
私のお盆には乗っていない生野菜であろうメニューを咀嚼するパリパリという音が、Aさんのカーテンの向こうから聞こえる。その音を聞きながら、私はふと、ここは社会の小さな縮図だな、と思った。
年齢も、国籍も、困りごとも違う4人が、それぞれのカーテンの中で自分にできることをし、必死に今日を生きている。努めて明るく話す人、苦しそうな声の人、それは様々だけれども、みんな必死に生きているのだ…母親になるために。
それだけで、私の心にはほんのりと勇気が湧いてきた。ここにいる「ルームメイト」たちだけではなく、経過が順調な妊婦もみんな、見えないだけでそれぞれの不安を抱えているのだ。簡単に「母親」になる人なんていない。不安なのはきっと私だけではないはずだ。そんな当たり前のことに気付けただけでも儲け物だったと、青痣と点滴の針で傷だらけになった両腕を眺めながら私は考えた。
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昨日の早朝、Aさんは誘発分娩に備えるために大部屋を卒業した。BさんとCさんは悪阻の症状が緩和し退院。きっと今は自宅で食事をしっかり摂れているはずだ。結局、最後まで「ルームメイト」たちと顔を合わせたり、話したりすることはなかった。満床だった大部屋は、今や私1人だけだ。
私もまもなく臨月に入るとともに、治療が終わる。子宮収縮を抑制する薬で何とか赤ちゃんをお腹に留めていたが、それがなくなるとどうなるのか、それは神様にしか分からない。
不安がないと言えば嘘になるけれど、私は決して1人じゃないと、今はそう思える。憧れのマタニティライフとは程遠い私の妊婦生活だけれど、「母親」になるために必要な時間だったといつかこの子に話したいな、と私は大きく膨らんだお腹に微笑んだ。