ジャーーーシャーシャー。ピチャンッ。
シュッシュッシュッシュッ。

私は今、こじんまりとした流し台でコーヒーカップやらティースプーンやらを繊細な手つきで洗っている。アンティーク食器は割ってしまったら替えはない。その事実に切迫を感じながらも、とめどなく流れてくる、食器の波に負けぬようチャキチャキ洗う。

「なっちゃーん、ご飯できましたぁ〜あ。洗い物は後でいいよぉ。先に食べてねぇ」
催眠術から醒めるような、マスターのいつもの拍子抜けな声がした。
「はぁーい。カップだけ棚に戻してからいただきまーす」
私はいそいそとカップを拭き、はやる気持ちをなだめ、そっとカップを棚に戻す。

カウンター席に座り、目の前には看板メニューの天使のハンバーグプレート、右側には、あっつあつのコンソメスープ、左側には、お皿いっぱいに盛られた照り輝く白米。いただきまーす! フォークとナイフで丁寧に切り分け、口いっぱいに頬張る。

◎          ◎ 

この席に座ると、いつでも昨日の事のように脳裏に蘇るあの日。私はこのカウンター席を選んだから、ここで働き、今も東京で一人暮らしをしている。

あの日、仕事を辞め、地元に帰ろうか悩んでいた私は夜中の12時ごろに、あてもなく夜道を歩いていた。光を求め、ひたすら家から遠くの方角に歩いた。宵闇の中、光に吸い寄せられる蛾のように流れ着いた先が、そのカフェだった。

古びた赤と白のストライプの屋根が突き出し、店内は薄暗く、ガラス戸に近づかなければ、開店中なのかの確認も難しい。年季の入った木製のドアには黄ばんだ紙に、バイト募集中と、殴り書きのような紙が張り出されていた。

ギィィと音を立てながら木製のドアをひき、ゆっくりと足を踏み入れると、そこには、天国のような穏やかな空気が店いっぱいに漂っていた。薄暗がりの下、客達の光る視線を受け、戸惑っていると、いらっしゃいませぇ〜。白いコック服に、腰から下は黒いエプロンを巻き、ふわふわした白髪の上に黒いベレー帽をのせた男性が立っていた。絵本から出てきた羊のような男性は、お好きな席どうぞぉ〜、と、続けて、私に声をかけた。

◎          ◎ 

急いで座席を確認し、4人掛けのテーブル席では申し訳ない思いから、カウンター席に足早に腰を下ろした。すると、冷えたお水と、あったかいおしぼりを笑顔でアルバイトの若い女の子が用意してくれた。

「初めてのご来店ですか?」
「は、はい」
「ケーキもあるので、ゆっくり選んでくださいね」

女の子の屈託のない優しさと、おしぼりの温もりが抵抗する隙もなく沁みる。私は、看板メニューのイエーガーリッシュコーヒーを頼み、アルコールが気持ちよく回ってくるにつれて緊張も解け、バイトの女の子と、互いの趣味の話、最近見た映画の話、地元の話など、年齢や肩書を忘れてとめどなく話した。

そんな中、ふと、入り口で見かけた"バイト募集中"の張り紙のことを思い出し、「バイト募集してるのかな?」と、唐突に女の子に聞いてみた。「うん。働きたいなら今マスターに聞いてみたらいいよぉ」

そう私にあっさりと告げ、マスター!と、奥で仕込みの準備をする男性に呼びかけた。目の前に現れた男性にむかい、「あ、あの、ここで働かせてください」自分でも驚くほど、簡潔に思いが口走った。男性の返事は、「いいよ、じゃあ明後日入れる?」だった。

◎          ◎ 

なんとなく真っ直ぐ家に帰りたくない日、今日に満足できず夜が更けても眠れない日、そんな日は、心に身を委ねて足を動かすのもいいかもしれない。そこに座るべき席が用意されている合図かもしれないから。