私はよく、とある会話で疑問に思うことがある。
それは、「あの人、変わってるよね」という会話である。
「変わってる」とは、どういうことなのか?

私がなぜ疑問を抱くかというと、人はみんな変わっている部分があると思っているからだ。自分は変わっていないと思っていたとしても、1人に1つ濃淡が違うだけで変なところが必ずあると思っている。

しかし、私はその変わっている部分を決して悪いところだとは思っていない。
今回、私が掲げている人それぞれに備わっている変わっている部分のことを「変態性」と名付けたい。性的な部分のことではなく、世の中には出していない、自分自身の性質のことを指している。

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人にはよく二面性があると言われているが、本当は「三面性」があるのではないか、というのが私の自論。
社会に向けている一面と、家庭や友達に見せている一面、そして変態性の一面。
家族や友達にも見せていない一面のことであり、自分だけが知っている、誰にも見つかってほしくない一面のことだ。

例えば世の中に出ている漫画だって、音楽だって、このエッセイだってそう。
誰にも見られたくない密かに抱いている思いや、捻じ曲がった思い、常識外れな考え、などである。

私は昔から、外で友達と遊ぶより、いち早く家に帰って自由帳に漫画を書くことが楽しみだった。誰の目も気にせず好きなように描いていき、マイワールドにどっぷり入っていく感じが堪らない。恋愛ものを描くときもあれば、時にはおどろおどろしいホラーものを描いたりもしていた。

内気な性格であるということも関係しているのかもしれないが、誰にもバレないように、ヒソヒソと趣味を楽しむことが好きだった。
一時期は漫画雑誌に漫画を投稿することも考えていたが、やはり自分の漫画を社会にお披露目するような勇気はなく、自分の思いの中で留めていた。

しかし、最近はそんな変態性が世間の目によく止まるようになっているのではないかと思っている。

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それは、SNSの存在だ。自分が今まで隠していた気持ちだったり、密かに取り組んでいたことを社会の中に存在させることが出来るようになり、しかも自分の変態性に共感してくれる人まで現れる。

友達や家族には到底見せられない部分も、ネットの世界では大っぴらに見せられる。なんとも不思議な世界である。

では、なぜこの変態性がそれぞれの人達に備わっているのだろうか。私の見解に過ぎないが、きっと世の中に対する不満だったり、うまく言葉にできない気持ちのやり場に困っていたりなど、内なる怒りや不満、承認欲求などがそのような変態性をむくむくと育てているのではないか。社会や家族、友達との関係性の中にうまく持っていくことができない気持ち達である。

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私は幼少期から言葉で思いを伝えることに苦手意識があった。自分の思いを必死に伝えているつもりでも相手にうまく伝わらないことが多く、もどかしい思いを何度も経験した。その気持ちを漫画にぶつけることで気持ちを浄化していたのだと思う。

人によってはモヤモヤとした気持ちをうまく表面化し、綺麗に浄化させることも出来るかもしれないが、そんなことはできなかった。

でも、私はその変態性を大事に育てていくことが、その人の「個性」となり、「長所」や「特技」に結びついていくのではないかと思っている。

他の人は持ち合わせていないその特性を活かして社会と勝負をすることだってできるし、色々な手段で自分を表現することだってできる。しかし、そのためには自分の恥を世の中に晒していくことになるため、その恥をしっかりと受け止める覚悟が必要であり、誰に何かを言われてもめげない心を育てる必要がある。

だが、そこで誰かと繋がることができたら新しい居場所となり、心理的な安全性にも繋がるのだと思う。
そして、全ては自分の顔であり、自分自身である。切り離す必要はないと思っている。

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私は「あの人変わっているよね」という発言に対して、「あなたもきっと人には言えないような部分を持っているんじゃないの?」と思ったりする。
もしその部分を見せてくれるのであれば、私はホッとするような安心感さえ覚える。
もっとその人と近くなれるような気がしているし、完璧を繕っていない「生身の人間」として関わっているような感覚になる。

そして、その部分が実はその人が光る一部分だったりするから、私はとても嬉しくなる。

ちなみに、描いていた漫画は誰にも見られていないだろうと思っていたが、大人になってから親が実はその漫画を見ていたということがわかった。
私の守りきれなかった変態性である。