女児を出産した友人は言う。「雛人形は?」と夫の親に言われるのが鬱陶しい。お内裏様と対になったお雛様は、「女性は立派な男性と結婚するのが幸せ」という価値観の押しつけであり、かつ、LGBTの人への配慮が足りないと。

彼女は今年男児を出産したが、五月人形や兜は、「男子は強く逞しく」という願いがこもっているので、要らない。鯉のぼりも、一番上がお父さんで一番大きく、二番目にお母さんという順番が時代錯誤とのことだ。

私はお雛様についてそんな風に考えたことはなかった。単なる工芸品として愛でていた。さすがに今の時代、「しまうのが遅れたら行き遅れる」というのは論外だが、彼女の言い分はちょっとうがちすぎではないかと考え、いや、自分も人のことはえまいと思い直した。

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私は結婚式におけるブーケトスは要らないと思う派だ。以前、友人の結婚式に呼ばれ、その場で未婚の女性が私一人だったため、花嫁はブーケを投げるというよりは、私に直接手渡しするようにくれた。

花嫁である友人が、私を案じてくれているのは伝わったが、どうして大勢の人の前で、自分が結婚していない(あるいは出来ない?)ことをさらされねばならないのか。

ドラマのブーケトスの場面では、新婦の未婚の友人たちがブーケに群がり競うように受け取るのがお決まりのパターンだ。けれど、未婚女性がみな結婚したがっていると思うのはお門違いである。

最近の結婚式について思うことは多い。とにかく披露宴が長い。結婚式はお世話になった人に感謝を示す場だというわりに、内輪だけにウケるコントを延々と見させられているようで鼻白む。

このところの流行で、新郎と新婦の、赤ちゃんから今までの成長のアルバムをスライドで流す。こういうのを見てうれしいのは、身内の人間だけではないだろうか。あるいは新郎新婦の馴れ初めから今に至るまでのプライベート感満載の赤裸々な写真を見せる。がんしゅうという言葉を知らないのか、勝手にやってくれという感じだ。

あるいは両親への感謝の手紙を読む。年上の知人が、わざわざ公衆の面前でお涙頂戴の演出をしなくてもよいと言っていたが、同感である。生まれた時と同じ重さのテディベアを親に贈るというのも、商業主義の匂いが勝ってしまう。

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結婚はしても式はしなくてよいと思っていた。ウェディングドレスが女性の夢という時代でもないだろう。教会で式を挙げるといっても、私は筋金入りの実存主義者なので、宗教を持たない。だいたい、神父と牧師の違いも分からない、聖書の一節を読んだだけで頭痛がする人間が、表面上だけなぞっても仕方ない、形式主義は結構……というようなことは、言えなかった。

こういう屁理屈を言えば疎まれることは知っていた。花嫁姿を見せるのが孝行だとも諭され、皮肉は封印し、身内だけの式を挙げた。式を挙げるお金があること、喜んでくれる人がいることに感謝すべきだろうが、新婦がバージンロードを父親と歩き、新郎に託されるというのは、時代にそぐわないと思った(託される側の新郎も迷惑だ新郎新婦が一緒に入場するのが良いのではないか。

とまれ、お祝いごとについての考え方は多様化の一途にある。独善的な意見を押し付けないよう肝に銘じたい。
そういえば記念日について、中学の同級生で、卒業文集にこう綴った子がいた。「文集にのせる作文に、一番の思い出は修学旅行だとか、学園祭だとか、皆書くけれど、私は大人になったとき、何気ない日常の一コマこそ、かけがえのないものとして思い出すだろう」と。老成した賢い子だった。ハレの日の記憶はおぼろげでも、たわいもないひとときのことはかえってよく覚えていたりする。心当たりのある人も多いだろう。