今日も「垢抜け」って言葉が街中にあふれている。
「どこか垢抜けないメイク」「垢抜けしたい」こんな感じで誰かの不安を煽るように用いられるその言葉に、どうして縛られてしまうのだろう。
特別流行りに乗っていたい訳じゃないけれど、何故か「垢抜け」に関する情報を追ってしまっていた。確かに「垢抜け」れば、流行に乗っているという充足感は得られるだろう。
私自身意味もなくSNSを徘徊して垢抜けに関する情報を集めていた。服もコスメもスキンケア商品も、ほとんどSNSから得た情報をもとに購入している。美容に関して専門的な知識もないので、パーソナルカラーも骨格もいまいち分からないままではあるが、何となく「イエベっぽいかな?」「骨格ナチュラルに近いかな?」と感じて商品を買うこともある。
だけど、私は「垢抜け」に全てを捧げて従うことは出来なかった。ネットで検索すれば「ダサい」と誹謗中傷されるブランドの服を、好きだからという理由だけで着るし、好きな服やメイクを「ダサい」という恋人には説教した。
「垢抜け」と「自分の好み」が真っ向から相反している場合、大抵後者を選んでいたのだ。
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そういう観点から考えると、「垢抜け」という概念は「不特定多数の人間によって作られた、自立した一つの価値観」とも見ることができる。
垢抜けには自我があり、ノンジャンルで(量産型だろうと地雷型だろうとお姉さん系だろうと幅広い範囲で)使われる言葉なのに、誰かの好みと相いれない頑固さがある。
そう考えると、「垢抜け」って怖い言葉だと思う。特定のジャンルについて賛否することを避けつつも、実際はメイクや服装や髪型や写真の撮り方に、「あれはダメ」「これはダメ」等と厳しいルールを設けているのだから。
「垢抜けという言葉は、特定のジャンルのファッションに対して使われるわけではない」
「垢抜けにおけるルールは、『あれはダメ』『これはダメ』といった禁止事項が多い」
この二つの特徴から、とんでもない結論が導き出される。それは、
「どんなジャンルのファッションを好こうが『垢抜け』はまとわりつく」
「ファッションはやってはいけないことだらけで、いつの間にか楽しめなくなる」
説明不要の地獄だ。
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そこで私は思う。
「いっそのこと、『垢抜け』から距離を取って生きる方が楽しいのでは?」と。
辛いことは人生から出来るだけ切り離して、好きなことを追いかける方がずっと幸せなんじゃないかと。嫌いな人のSNSを覗くんじゃなくて、好きな人のSNSで元気をもらった方が楽しいのと同じように。
「垢抜ければ自分の魅力が増す」って考える人もいるかもしれないけど、なりたい自分がないまま突き進んでしまうと、いつまでも終わらないマラソンを走っていたり、ぽっかりと穴が開いているバケツに水を貯めていたりするような感覚に陥ってしまう。
だからこそ私は、好きなもので周りを固めたい。それは、世間が自分をどう評価するか、というだけじゃなくて、自分が好きな存在をちゃんと好きでいたい。
だからもし参考にするなら、憧れている人のファッションがいい。
「憧れの人が使っているもの」
「憧れの人みたいな服」
もちろん、憧れの人本人になる必要は無いけど、そういうアイテムを身に着けると不思議と気分が高まる。だから服もメイクも、好きな物を身に着けることで少しでも幸せになれるように生きていきたい。