どうやら、私は「母親」になれないらしい。
不妊治療を始めてまだ時間はさほど経っていないが、結論が出てしまった。らしい、と書いたのは、どうしてもといえばまだ追い求める方法もあるが、それは今のところ選ぶつもりがないという意味である。

てっきりいつか自分も「母親」になるものだと思っていたので、驚いた。子どもを産んで、女の子だったら自分と同じように母と買い物に行ったりして……という希望を人並みには持っていた。夫婦仲は良かったし、周りの人も不妊治療の結果、授かった話の方が身近だった。

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望めば必ず手に入るものではない、ということを本当には理解していなかったのだ。クリニックで泣きながら、今ここにいる同じ希望を持った夫婦たちのうち、理由はどうあれ最終的に絶望する可能性がある人が相当数いるであろう現実に呆然とした。

きっとそれは思ったより多いのだ。知ろうとしない、語られない側面。内容がセンシティブすぎて、結論が同じだとしても自分と全く同じ過程の人を探しようもなく、本当の共感を得られる場がないことが私の孤独に拍車をかけた。

しばらく私はノートで私とだけ対話するしかなかった。

母親になれない。その事実は私を宙ぶらりんな気持ちにさせた。

「どうして私が?」「天涯孤独……」「生きている意味って?」「もっと早くにできないことがわかっていたら?」「もしこの人と結婚していなかったら?」「自分は産みたいのか?『母親』になりたいのか?」「ここからの人生どうする?」……答えのない問いが浮かんでは消える。

誰かの答えではダメで、時間がかかっても自分なりの答えを持たねばならないということだけがわかる。そしてこの結果は誰のせいでもない。やりきれない。

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「母親」。

経験してみたかったと言うと、あまりに軽薄に聞こえるだろうか。授かっても五体満足で健康かもわからないのに、と?ただ、それでも、もしも願いが叶っていたとしたら。

無償で限りない愛情を注いでくれて、全力で甘えられる存在のイメージのそれに、私はなれただろうか。そのイメージがあるだけ私は幸せだと思うが、それに囚われてしんどかったかもしれない。責任や役割がどうしようもなく重荷になることももちろんあるだろう。

母親も一人の人間であると子どもがわかるのは、随分大きくなってからだ。リスク、時間、責任、それでも。自分の血を分けた存在を持つことがどんなものなのか、知りたかったと私は思う。

父が亡くなり、今私の母は老いた女の側面が強くなった。いつまでも子どもでいたい気持ちはあるが、母はもはや頼りにする存在ではなく、守らなくてはならない存在に変わりつつある。

しかし、彼女にとって私は子どもである。永遠に。

そして、私が親の心境を真に理解することもまた、永遠にないのだろう。

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「母親」。

これまで意識することもなかった無数の形のそれを見て、私の心は特段痛むわけではない。ただ自分が経験することのない存在に思いを馳せ、心の奥で静かに哀しむだけだ。

命のリレーを止めてしまったかのような、罪悪感。拒否権なくマイノリティになったようなほろ苦さと寂しさ。墓参りで「貴方が元気なら良いんだよ」と言われたような気がしたのは、おそらくただの願望で。持て余した母性の行く先を、私の心は未だ持たない。