私は今年で29歳になる。
田舎に住んでいると、「同級生が結婚した」「出産した」などの情報が回るのが早い。特に現代はSNSが発達しているため、遠方にいる知人の情報の入手も素早く出来る。20代後半になると、我が子の成長日記のごとく、Instagramに写真付きで近況を載せる子が私の周りにも多い。
だから、私自身も周りとつい比べてしまう。

医師の友人からの出産についての「助言」には納得ができた

小学校からの友人Aは医者になった。
久々に再会した際、「子供が欲しいなら、第一子は35歳までに産んでおいた方が良い」と教えてくれた。医学的な観点から助言されると、余計に「タイムリミット」を感じてしまう。また、「出産しない場合には、幾つかの病気の可能性が増す」とも教えられた。
女性の身体、及び生理などは、子供を産むためにあるものだと考えると、納得はできた。

高校時代の同級生Bとは、社会人になってからも交流がある。Bは既に母となり、子供の入園式まで経験している。
思い返せばBが「妊娠しました」と打ち明けてくれてから、会う度にお腹が大きくなっていき、やがては赤ちゃんが外の世界に出てきてくれたことは、感慨深かった。
Bのお腹に手を当てたり、お腹に向かって「ママの友達だよ。産まれてきたら、名前呼んでね、いっぱい遊んでね」と話しかけていた期間が非常に懐かしい。

保管されていた「へその緒」は、産前からの愛の塊みたいだった

小学校の授業で「へその緒をもし保管している家庭は、次の授業で持ってきて下さい」「また、産まれた時間や体重などのデータを集めて、クラスで一つの冊子にしましょう」との時間があったことを、今回ふと思い出した。

へその緒は、お母さんと赤ちゃんを繋ぐ大事なもので、それを切る感覚とは一体どんな感覚なのだろうか。「我が子との繋がりが、一旦途切れてしまって寂しい」のか「ここからが子育ての本番だ」なのか。
様々あるにしろ、「この世に無事に、元気に産まれてきてくれてありがとう」が真っ先に浮かぶと推測する。

学校から帰宅後、母が取り出してきたへその緒は、産前からの私への愛の塊のように感じた。誕生して十数年が経っても、大事にしまっているのも嬉しかった。
また、出生時のデータもしっかり残っていた。私自身、赤ちゃんとして産まれた瞬間の記憶などが全く残っていないため、記録に残してくれていて、非常にありがたい。

私は逆子で、帝王切開で産まれた。予定日より2週間早く産まれ、母は心の準備が追い付かないまま、必死だったに違いない。たまに母と一緒にお風呂に入るが、母のお腹にある傷を見る度に「痛かったに違いない」と思う。
一生消えない傷を負った代償に私が誕生した。精一杯、恩返しをしながら生きて行く必要がある。

まだ母になる想像はできないけど、後悔のない人生の選択をしたい

友人も母も出産を経験して、守るべきもののために、懸命に今を生きている。現時点で「子供が欲しい」との思いが無くても、後々愛する人ができて「この人との子供が欲しい」と感じる日が来るかもしれない。

友人Cは既婚者であり、現在は子供を授かっていないが、彼女は子供を望んでいる。彼女は「旦那のことをどれだけ好きでも、血の繋がりはない。だが、旦那との子供が出来たら、その子とは血縁関係ができる。彼との子だから欲しい」と切実に願っている。
今の私には無い感覚であり、そう思える相手と出会い、出産を経て家庭を築けることは理想的だ。

今後の人生がどうなるのか、誰と過ごしていくのか、家族を新たに作る日が来るのか、全く見当がつかない。特に、私自身が母になる想像が出来ない。
だが、もしかしたら子供が出来て、育児に奮闘している内に、子供がいつのまにか私を親にしてくれるのかもしれない、との予想もしている。
後悔の無い人生の選択をしながら、女性として「出産」というライフイベントについて、じっくりと考えていきたい。