私は太っている。私は醜い。私は悪い人間。

母が私にかけた呪いは計り知れない。たとえそれが真実でも。
でも、1番強い呪いは、「私は生きなければならない」だ。

母は美人である。専業主婦で、習い事をたくさんやっていて、料理が上手。理想の母で、憧れだった。そんな母だからこそ、「みっともない」ことに厳しくて、私は身だしなみや生活態度を直しなさいと、毎日叱られていた。

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「そんなイヤらしい服を着るのはやめなさい」
「太ってて不細工だということを自覚して行動して」
「どうしてあなたは私の言うことが聞けないの?そんな子は嫌い」

このような言葉をシャワーのように浴びて育ったので、当然ながら自己肯定感の低い人間が完成した。

大人になってから、母に聞いたことがある。

「どうして私のことをあんなにけなして育てたの?」
「あなたは私の分身でしょう?私が私を褒めるなんておかしいから」
「……」

それはたとえそう思っていても口に出してはいけない感情では?
母は至極当然という顔で話していたのでちょっと怖くて、でも、なんだか合点がいった。
確かに母と私は運命共同体のような感じがあった。母はしきりに「私はあなたを産むために生きてきた」と言っていたし、私がなにか悪さをすると「お母さんのせいなんでしょ」と自分の責任にしていた。

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母は私に呪いをかけることを通して、自分を呪っていたのかもしれない。そして、それを少し嬉しく思う自分がいる。

なんだかんだ母のことが好きだし、多くの子どもとおなじく、生まれて初めて依存した対象が母なので。そのつながりがいつまで経っても切れないのはある種の安心をもたらしている。

だけれども、最近考えるのが、母が死んだあとも自分は生きているだろうということだ。
母がいない世界で生きている自分というのがまったく想像つかない。そういうこともありえると頭では理解できても、まったく現実味がないのである。

私は母に望まれて生まれてきて、母が生きるために必要だから生きている、という感覚がある。母も、「あなたがもし死んだら、私はなんのために生きてきたのかわからない」と言っていた。

私たちはお互いに「相手を生かすために自分も生きる」ことを前提として生きている。だから、どちらかが死んだら残された方のアイデンティティは崩壊する。

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お母さん、それはずるいよ。
この関係は母が作ったものだ。なのに、高い確率で母が先に死ぬ。私は母が死ぬ前に、自分の生きる意味を他の形で見出す必要がある。
母と同じように、私も子どもを産めばその子のために生きていけるようになるだろうか?
でもそれは、あまりにもエゴだ。私は母のような親にはなりたくない。
じゃあ、どうやって自立すればいいのか。

それがようやく見えてきた気がしている。大事なのは「怒り」のエネルギーだった。
私は母以外の人に対して、声を荒げて怒ったり、抵抗したことがなかった。母は自分の延長だけど、母以外の人は他人だったから。他人にそこまで期待できないと思っていた。

でも、結婚してから少しずつ、夫と喧嘩できるようになった。自分のだらしない部分を見せたり、かっこわるく怒ったりということができるようになった。それでも離れていかない存在を作ることができた。

それでは依存先が夫に変わっただけなのかと言われると、それは違う。あくまで夫は私と別個体の人間であり、彼と私は似ているところもあるが違うところもかなりある。そして、そのことに絶望しないでいられる。自分との違いも愛せる。こういった関係を他者と作れたことが、自立なのではないかと思う。

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母は年老いていく。それを見て恐怖している自分がいる。けれども、私だけを見て私だけのために生きて欲しいとはもう思わない。私も幸せで、母も幸せであるといいなと思う。

「母」ではない自分を謳歌して欲しい。だから私は、自分の幸せな姿をたくさん見てもらいたいと思っている。そうすることで、母も呪いから解かれるのではないかと思うのだ。