2021年の流行語になった「親ガチャ」。他にも「配属ガチャ」「国ガチャ」など、自分にコントロールできない要素で人生が決まることを意味する俗語として「○○ガチャ」という言葉が使われるようになった。

子は親を選べないし、新入社員は配属先を選べない。誰しも生まれる国を選べない。思えば世の中には様々なガチャが溢れていて、我々はそれを当たり前に受け入れたり、疑問を抱いたり、反発しながら生きている。

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以前友人と「自分は親ガチャに当たったかはずれたか」という話題になった。その友人は両親とは仲が良いが、幼少期から外国語を勉強させたり、海外に留学させたり、日本の教育機関や生活環境以外にも、もっと広い世界が存在することを早いうちから教えてほしかった、選択肢として与えてほしかったという理由で「はずれ」を選んだ。

確かにそれは一理ある。母国語しか話せないのが当たり前の日本人にとって、違う国の言葉がわかる、異なる文化に触れた経験があるかどうかで、人生は大きく変わってくる。親が外国のルーツを持っていたり、留学の経験があったり、周りの環境によっては、近所の幼稚園や小学校以外の学校に行かせる選択ができただろう。これは親の価値観だけでなく金銭的な問題も絡んでくるので、まさにガチャである。

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では自分はどうかと考えてみて、私は「当たり」と答えた。私は親から「○○しなさい」と言われたことがない。実際には言われていたのかもしれないが、記憶としてはない。幼い頃はどうだったかわからないが、部活や進学先、アルバイト先など、誰かに相談することは少なく、基本的になんでも自分で決めて事後報告することが多かった。これは私が長女だからという理由も含まれるとはいえ、親に何かを強制的にやらされることがなかったから、自分で考えて選択することができるようになったのかもしれない。放任主義だったのか、本当は心配していたが口に出さなかっただけなのか、おかげ様で私はのびのび育った。

もし自分が子供を産んだとしたら、両親が自分を育てたように我が子を育てたい。そう思えるから、私の親ガチャは当たりだと感じている。

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では、私の親の「子ガチャ」はどうだろうか。

小学校中学年くらいの頃から、近所の駄菓子屋で買い食いするのが流行っていた。お金を持って出歩き、子供だけで何かを買う、家以外の場所でものを食べるというのは、子供にとってなかなかスリリングな冒険で、少し背伸びした行為であった。当時の私はまだ毎月のお小遣い制ではなく、駄菓子屋に行く度に母から数百円ほどもらっていた。

ある日、私は祖母のタンスの引き出しに、小銭やボタンなどの細々したものが入った箱を見つけた。小銭は10円玉や1円玉が中心だったが、中には100円玉や500円玉も混じっていた。食べたいお菓子が買えたらいい。それくらいの気持ちで私は時々、ばれない程度に一回の量を調整しながら、その箱から小銭をくすねていった。

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子供というのは悪さをする時、大人に絶対ばれない謎の自信があるものだ。塾の宿題をやらずに授業当日を迎え、友達同士それぞれが思う大人っぽい字で親の確認サインをし合い、どこからどう見ても子供の字なのに、誤魔化せていると本気で信じていたように。

その日私は油断したのか、タンスの引き出しを漁っているところを母に見つかってしまった。隠そうにも時既に遅く、母は私の悪事の全貌を把握した。なんでそんなことするの。少し震えた声でそう言った母は泣いていた。失望させてしまったと、子供ながらに思ったのを今でも覚えている。母が私に対して感情的になって目の前で涙したのは、それが最初で最後だった。

自分がすべてを懸けて大切に育ててきた子供が、盗みを働いていたと知った時の親の絶望。子育て経験のない私には、そのすべてを理解できてはいないだろう。でもきっとあの時、母は怒りを通り越して悲しくなってしまったのだと思う。その後母は私を心から信用することができただろうか。信頼を裏切った娘を目の前に、母は子ガチャに「はずれた」と思っただろうか。

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30歳を過ぎた現在も、母との関係は良好なままだ。一向に結婚もせず孫の顔を見せる気もない私を、本当のところはどう思っているのかはわからない。親孝行らしいことも大してできていないが、大きな怪我や病気もせず健康に生きているだけましだと思うことにしている。

自分は子供を産んだ経験はないが、それなりに歳を取ると、親の気持ちというか、親世代の大人の気持ちみたいなものが時々わかるようになってくる。いくら血の繋がりがあるとはいえ、親と子は別の人間で、期待したり失望したり、様々な状況や感情に折り合いをつけて付き合っていくしかない。親に誇れる生き方を、だなんて立派なことはできそうもないから言わないが、せめてあの日の母の涙を忘れないでいたいと思う。