『母親になって後悔してる』
このタイトルの本を見たときに、一瞬血の気がひいてしまった。
「ひょっとして私の母も『母親』になったことを後悔しているのか?」と。
私の目の前にいる母は実に「母親」らしい。
子ども思いで、時には私を甘やかしたり、時には叱ったりしてくれた。私が泣けば慰め、私が困っているときは手助けをしてくれる存在。
今では母に手間を掛けさせることは減ったものの、やはり母は私の変化によく気づく。体調不良のときなど、私は何も言わないのに母は気づいていることもしばしばある。
このとき私は「やっぱりお母さんは気づいてくれるんだなー」と思ったりもする。
◎ ◎
でもある時、ふと気づいた。
私は「母親」のフィルターを通してしか母を見たことがない。
「母親」ではない母は一体何者なのだろう。「母親」ではない母はどこへ行ってしまったのだろう。私がいなければ母は「母親」ではないのに。
母は人々から「母親」というフィルターを通して見られてしまうことに、どんな感情を抱いているのだろう。
もしかしたら母は「母親」になる前のときのほうが良かったと、後悔してるんじゃないだろうか?
子供をお腹に宿した瞬間、その人は自分ではなく「母親」になる。
自分のままであれば気楽だ。自分一人しかいないし、自分がしたいようにできる。
何を選択しても拒まれないし、否定されない。周りからの重圧があるかもしれないが、他人は他人!自分は自分!と割り切ることができる。
好きなときに出かけたり、ご飯を食べたり、走ったり…自分のままであれば色々なことができる。
◎ ◎
でも一度「母親」になったらどうだろうか。
「母親」なんだから、それはしてはいけない。
「母親」なんだから、こうしなさい。
「母親」なんだから…と母親の呪いに縛られる。その上、制約もある。
私が「『母親』なんだから…」と言われたと仮定しよう。
おそらく私は「いやいやいや『母親』だとしても…私は私です!」と反発するだろう。「母親」になったとしても私は私。私であることには変わりないのだから。
でも、周りはきっと私を「母親」として見る。私自身を見てくれる人はきっといなくなる。おそらく私という存在は「母親」という言葉よりも軽くなる。私は「母親」という役割にかき消される。
「母親」になることは喜びでもあるが、一方で重みを感じることもあるだろう。
母もこんな感じだったのだろうか。
◎ ◎
以前、「私を産んで後悔したことある?」と母に聞いたことがある。
母は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしながら、ハッキリと「無いよ」といった。
この時、私はどうやら聞き方を間違えてしまったようだ。
私を産んだことを後悔することと「母親」になったことを後悔することは全く異なる。
私が聞きたかったことは、産む産まないに関わる後悔ではなく「母親」になる(もしくは「母親」である)ことに対する後悔だったからだ。
今思えば、私は故意に「私を産んで後悔したことがある?」と聞いたのかもしれない。もちろん母は「そんなことないよ」と否定するだろう。
でも「『母親』であることで後悔した?」ともしも聞いてしまったら、「母親は辛い」と言われてしまうかもしれない。
「お母さん、『母親』になって後悔したことある?」
「自分という存在が『母親』という役割に置き換わったとき、どう感じたの?」
いつか聞いてみたいけれど、私にはこれらの言葉を投げかける勇気はまだない。