授業参観や保護者会のある日は、母が学校に来る。中学生のとき、私はそれを恐れていた。見た目は普通のおばさんで、ひどく醜いわけではないし、服装に難があるわけでもない。ただ、口を開くとろくなことを言わないところがイヤだった。

「あら、ケイコちゃん。今日はみつあみしてるんだね、カッカッカ~」
特に笑い声がいけない。普通に「アハハ」とか「フフフ」などとすればよいものを、「カッカッカ」なのだ。水戸黄門でもないのに。他のお母さんたちは、まずこんな笑い方をしない。驚いて振り返る人もいるじゃないか。ああ、やだやだ。

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思ったことは口に出さないと気が済まないのだろう。廊下に飾られた花が造花なのか、生花なのかを確かめようとして、知り合いでもないお母さんになれなれしく話しかけていた。

「ねえ、これってナマかしらね?」
「はあ、ナマ……じゃないと思いますけど」

なぜか鼻息が荒いものだから、言葉を発したあとで「ブシューン」と風が起きた。周りの人たちは肩を震わせて静かに笑っている。母はウケたと勘違いして、さらにおかしなことを言い、「ブシューン」を繰り返すので、他人のふりをするしかなかった。

「ああ、私は笹木っていいます。これはうちの子で砂希。仲良くしてやってね」

ときには余計な自己紹介が入り、私の努力が水の泡と化す。私は恥をかくために生まれてきたのではないのだが。

「あれが砂希ちゃんのお母さんなんだ。おもしろいね」

好奇心から友達が話しかけてくることもあった。

「いやあ、勘弁してほしいよ。代わる?」
「それはちょっと、あはは」

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そんなこんなで級友たちにバカにされないよう、勉強だけは頑張らなければいけなかった。昭和の時代に限らず、子どもたちは自分より劣っている者に対して厳しい態度をとる。そこそこの成績をとらないと友達がいなくなってしまうのではと、私は毎日必死だった。

高校受験を控えた三年生のときは三者面談がある。やはり母がやってきて、志望校について担任の話を聞いていた。

「この学校なら安全圏です。もっと上にチャレンジしてもいいんじゃないでしょうか」
「あらそうですか」
「これまでの成績をお渡ししますね」

担任が母の方に向けて、A4サイズの紙を差し出した。机上に置き、3人で5段階評定を見ていたところで、お決まりの「ブシューン」が飛び出した。

「三教科では数学が苦手みたいですね。でも……ああっ」

説明中だというのに、成績表が鼻息に乗って床に落ちた。私はそのとき、「穴があったら入りたい」という語がどのような場面で使われるかを、誰よりも正しく理解した気がする。三者面談が終わるまでのほんの15分が、これほど長く感じたことはなかった。

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高校以降は母が学校に来る場面が激減したため、恥をかかされることがなくなった。今から思うと母は母なりに、人前に出るため気合いを入れていたのではないだろうか。それが誤った方向だったことにより、数々のトラブルを味わう破目になったけれど、親心というものも持ち合わせていたことはわかっている。

今年、母は82歳になった。すこぶる元気ではあるが、得意の「カッカッカ」はトーンダウンし、「ブシューン」にも威力がない。何か話そうとしても言葉がスムーズに出て来ずに、探して探してやっと口にしているように見える。食事の量もかなり減ってしまい、長い距離は歩けない。でも、可愛いおばあちゃんになってくれたことがうれしい。

親は子の思う通りに動いてくれないし、子も親の期待通りには育たない。けれど、長い時間が経つと、ほとんどが「どうでもいいこと」となっていくのだ。

母との関係に悩んでいる人には、いずれは時が解決してくれるとお伝えしたい。縁あっての親子関係を大事にしていただければと思う。