今夏はグランピングに行きたい、と書いていて自分でも驚く。というのも、私は根っからの文化系インドア派なのだ。

家やカフェで読書したり、美術館やクラシックのコンサートに行くのが好き。登山やキャンプが好きな人とは相容れないと思っていた。なぜ、危険を冒してまで、不便を承知で、わざわざ苦行に近いことをしなければいけないのか。そう言うと、アウトドア派の人は、山に登った時の達成感は何物にも代えられないとか、外で食べるご飯は最高だとか反論してくる。それ自体、押しつけがましい。インドア派よりアウトドア派の方が健全というか、アウトドア至上主義みたいな空気が苦手だった。

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ところが結婚した夫が、大のアウトドア好きだったのである。そんな趣味のかけ離れた人とどうやって結婚に至ったのか今となってはよく分からない。わが家は夫の趣味で犬を飼っているのだが、夫は犬を連れて湖畔を走ったり、キャンプしたりしようと誘ってくる。どうしようか迷っていた時、ふと学生時代の友人のことを思い出していた。彼女は、彼がマラソン好きということで、毎朝、後をついてランニングしていた。聞けば彼女自身は、ランニングは得意ではないという。その、「あなたにどこまでもついて行くわ」という心意気は私にはないものだった。

私の夫は、友人の彼のようにマッチョな思想を持っていないので、私が断ったとしても気にしないだろう。けれど、果たしてそれでよいのか。結婚しているのに、休日はそれぞれがスタンドプレイしているのなら、何のための結婚生活だろう。

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それで試しに近場の低い山や湖畔へ、お弁当を持って行ってみた。身体を動かして汗をかくのが気持ちいいと言っては嘘になるが、気づいたこともある。それは、大自然の中にいると日頃の些末な悩みがどうでもよくなるということだ。もう少し正確に言えば、悩んでいる暇がないというか。山はいくら初心者用のコースとはいえ、油断していたら足を滑らす。神経を足裏に集中させる。そんな極限状態では、「自分は他人にどう見られているだろう」などといった、顕微鏡の中をのぞき込むようなちまちました自意識は吹っ飛んでしまう。また、急斜面や突然の雷鳴に出くわすと、自然に対していかに自分が無力であるかを知り、自然への畏怖の念が生まれてくる。普段の生活では、すべてがボタンひとつで思い通りになると思っていた自分が、いかに傲慢だったかを悟る。

あるいは湖畔では、私が手に持っているおにぎりを狙って、トンビが頭上を周回している。そのおにぎりは夫のリクエストで、ふりかけをまぶして握ったおにぎりだ。私は、ふりかけは温かいご飯にかける分にはよいが、おにぎりにして冷えてしまうと、嫌な匂いが気になってあまり好きではない。けれど、いつトンビにかっさらわれるか分からない状況では、そんなことは言っていられない。非常時にほとんど一口で食べたおにぎりは意外にも美味しかった。

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そして、波の寄せては返す音はずっと聞いていられるような気がした。自分が「無」になる感覚というか、自分の中にある、太古の昔から引き継がれたDNAが呼び覚まされている感覚というか。波の音にリラックス効果があるというのは、あながち間違いではない。

この夏は愛犬を連れて野外で宿泊に挑戦したい。といっても、私は初心者なので、自分で火を起こすところから始めるような、ガチのキャンプは厳しい。そこで、グランピングだ。ガスも使えるし、寝袋で寝なくてよい。インドアとアウトドアの折衷案。

普段、自分から進んでしないことをしてみると、潜在意識が活性化する。自我を通さず、人に流さて行動するのも悪くない。