男に生まれれば良かったと思うのは、男として生きる苦労を知らない女の戯言だろうか。私は男として生きたことがないから、男の人生は楽そうで羨ましいなんて言うつもりはないけれど、私にはどうしようもなく女でいたくなかった日がいくつもある。

あの日、私は仕事に向かう電車に乗っていた。当時映像制作の勉強をしていた私は、朝からインターンとして参加する現場があったのだ。比較的家賃の安い東京の縁から私たちを都心へと連れていく電車は、いつものように通勤通学客でひしめいていた。吊り革の確保にも失敗し、与えられた狭いスペースで体幹のい私の足はステップを踏む。 

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乗り換えの池袋まであと何駅だろうかと、四まで数えてやめたときだった。誰かの手が私の太ももに触れるのが分かった。はじめはカバンか何かが当たっているのだと思ったが、太ももから感じるのは人の体温だった。痴漢をされるのは(多くの女性がそうであるように)初めてではなかった。叫ぶ勇気も気力もない私は別の車両に逃げようと思ったけれど、満員電車でそんな身動きの自由は無かった。仕方なく身をよじるようにして抵抗した。それでもその熱を持った手はまとわりついてきて、太ももからお尻を這うように移動する。蒸し暑い初夏の電車内で、鳥肌が立つのが分かった。恐ろしくて顔を見る勇気は出ない。触れる手を拒むように全身が硬直する。気持ち悪い。

私はどうすることもできず、ただただ池袋に着くことを願っていた。するとそいつは自分の股間を私の腰あたりに擦り付けはじめた。誰か助けを求めようと顔を上げても皆スマホとの睨めっこに必死である。流石に耐えきれずに、私はすいませんと何度も言いながら人を無理やり掻き分けその人の元から離れようとした。怪訝な顔をした人達が私を一瞥する。なかなか道は開かない。痴漢をしてきたその男は焦ったのか、私を逃すまいと私の腕を掴んだ。やめてくださいと小さな声で言うと周りの人たちも異変に気づいたようだ。大学生だろうか、背の高い男の人が「おい」とか「やめろ」とか言っているのが聞こえた。「大丈夫ですか」と言ってくれるお姉さんもいた。私は頭が混乱していてろくに返事もできなかった。

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そうしていると電車が次の駅に停まった。「駅員さん!」「痴漢!」「この人この人」。何人かがそう叫んで停車駅のドア付近にいた駅員がその男の手を引く。男は「違う」と「冤罪だ」と言う言葉を何度も繰り返して、私を糾弾するような目で睨んだ。私も誰かに促されて電車を降りた。ホームで二手に分かれて電車に乗り込むのを待つ人達の視線が刺さって、消えてしまいたくなった。

私が簡単に話を聞かれている間に、痴漢男はどこかへ連れていかれたようだ。私が気がかりだったのは気持ち悪いあの男でも被害を受けた私でもなく、行かなければならない仕事のことだった。もし私が仕事に遅刻して「痴漢の被害に遭って警察に話をしていたので遅刻しました」と言ったら、上司は納得のいかない表情を浮かべるだろうことは容易に想像できた。駅員が警察を呼んで詳しく話を、と言ったところで、「いいです」と言った。「もう大丈夫です」 

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駅員は一瞬めんどくさそうな顔をした気がする。そして今後被害に遭わないためにも、みたいなことを言った。

痴漢をされたのは私だけど、上司に遅刻の連絡をして謝るのも私だ。

痴漢は、犯罪だ。だけど、多くの女性にとって痴漢は日常としてそこにある。イレギュラーな事件でも、悲劇的な経験としてでもなく、ただそこにあるのだ。

私の日常は続く。知らない人に尻を揉まれても、股間を擦り付けられても、続く。

私は電車を降りた数分後、もう一度電車に乗り込み仕事先に向かった。

痴漢が女性の日常ではない世界を願って。