人の誕生日を覚えるのが得意だ。
誕生月くらいなら、関係の浅い人でも、関わりが薄くなっていった人でも忘れない。
こういうタイプの人間は忘れられる側になることのほうが多いなと思う。

そんな私の誕生日は長期休暇の終わりころ。当日に直接友達に祝ってもらったことはなかったが、感情表現が苦手な私にとってはありがたかった。どれだけ心の中で喜んでいても、表に出すことができず、祝い甲斐のない人間だなと思う。
しかし祝ってもらうことが嫌いなわけではなく、大好きだ。

祝ってもらうことの何が嬉しいのか。私のことを考えてくれていることが明確にわかることと、かけてくれている時間が私は嬉しい。お祝いの言葉も、プレゼントも、私に渡してくれるまで考えてくれている時間がある。どんなタイミングで、どんな言葉で、喜ぶプレゼントはなんだろうと、自分のことを考えてくれている時間を想像して嬉しくなる。

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社会人になり、長期休暇は無くなって、誕生日当日も働いていることが当たり前になったころ。自分が祝ってもらうより、祝うことのほうが好きであることに気づく。

夜型の人間ではないけど、どうしても0時に連絡がしたくて起きていたり、仕事終わりにケーキを買って家までお祝いに行った。お店でのサプライズや飾り付けなど、喜んでくれるかを考えながら計画して実行することが好きだった。
少しの自己満足もあっただろう。
それでもその年の誕生日はこの先もうこないし、いつ祝えなくなるかはわからない。
できることはできる時にしたいし、やらずに後悔はしたくないというのが私の信念だ。

私の愛情は伝わりにくいらしいが、引かれるほどの重たい気持ちを見せることが怖くて無意識のうちに自制しているからだと思う。
そんな私にとって誕生日は、どれだけお祝いしてもいい日。普段伝えられないことを伝えられる特別な日だ。

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祝うことで満たされていた私自身だが、自分の誕生日を忘れられていた時どうなったか。
人によって大切にしていること、大切にする仕方と、重要度、優先順位など、様々であることを再認識することとなった。
自分のことを考えてくれていることが嬉しい私にとって、祝ってもらえなかった事実は、その逆を意味する。忘れられて気づいたことは、相手のことを考えることが好きであるのと同時に、自分が忘れられないように予防線を張っていたということだ。これだけあなたのことを考えて、想っているということを示していれば、私のことを忘れないでいてくれるだろうと思っていたのだろう。

忘れられたくないから、忘れないし、祝って欲しいから、祝っていたのか。
そう思いたくはなかった。

昔、同級生に誕生日プレゼントのお返しが欲しいから友達の誕生日を祝っている、あの子はお返しをくれないから祝わないと言っている子がいた。その時私は、祝いたいから祝っているのであって、お返しなど考えていないと返したが、結局似たようなものだったのだ。
お返しに物が欲しい彼女と、気持ちが欲しい私。
しかし、たとえ一方通行になったとしても好きであることは変えられないから、祝い続けてしまうのだろう。

そして長く伝え続けていきたい。
生まれてきてくれてありがとうと、出会ってくれてありがとうを。
プレゼントはもう買わないけどね。