上半身はリクルートスーツ、下半身は乱暴に毛玉が放置されたジャージを履いた私は、就活セミナーで教え込まれた100点の笑顔で、「はい、ありがとうございました!」と応え、そっと画面を閉じた。

私が就職活動に突入した頃、世の中は、未知の感染症拡大により、人も街も制度も、全てが混乱の最中にあった。

オンライン面接を終え、鏡に映ったチグハグな自分の身なりに、節目がちにうつむく。これが正しい就活というやつなのだろうか……。なにせ、自分だけではなく、この世界にとって初めての経験だ。進み方の分からぬ道を、一応流れには置いていかれぬようにと、必死になって流されていった。

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就活という響きは、子供終了までのカウントダウンとして、刻々と身体に警告を鳴らす。

「〇〇ちゃん、大手決まったらしいよ」
「でもさ、やっぱりギリギリまで粘るのが、一番納得できる就活だと思うな」
「私は、社会の役に立ちたいんです」

学校でたまにすれ違う友人との会話、ガクチカ、志望動機、自己PRに面接、全ては内定という合格通知を獲得するための行為。エントリーシートを書くたびに、私はリクルート仕様の人物像に寄っていった。そして、無事、第一志望の企業に内定通知をもらった私は、自己理解が深まるばかりか、とうとう自分が何者かわからなくなっていた……。

卒業と同時に上京し、都内の会社で働き始めた。お給料、職場環境、人間関係への不満はまるでない平穏な日常を過ごしていたが、自分の中の「何か違う」というモヤモヤは日に日に募り、1年ほど働き辞めた。

退職後、遠くに行こうと思い立ち、北海道の雪深い地にある村で農業をしたり、瀬戸内海に浮かぶ島の旅館で働きながら過ごした。自分の経歴(履歴書)を知らない人達のもとで、無性に人と繋がりたくなったのだ。

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「何か違う」という感覚や齟齬を感じた時、その感覚が自分にしか分からず、きちんとした言葉を帯びていなくとも、そのムズムズ感は、あながち間違っていないことの方が多いような気がする。そんな時、私は自分の呼吸が深まる場所に身を移す。自分という存在はちっぽけだと前向きに思えるような、もっと大きな存在と繋がれる場所。

就活中のチグハグ。私にとってのそれは、自分が自分自身のことを一番理解している、ということを忘れていたことにあると思う。就活中は特段、端的に分かりやすく相手に自分が何者かであるかを伝えるために、言葉にできない自分の特性や想いは、四捨五入した単純明快は単語に置き換えられ、文字や言葉で相手に伝える。そんな作業の中、こぼれ落ちた粒の中に、自分の大切な何かが混ざり込んでいるとも知らずに。

私はこういう人間です。という断定がつくる、ある種、自己暗示に近いやり方で自分を歪な形に作り上げていたことに、社会人になってやっと気がついた。

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世界中でSNSが日常に根付き、蔓延している時代。物心ついた時から将来の夢が決まっている人、大学で起業している人、自分にはこれしかないと何かを極めている人、そんな他人の人生を垣間見て、私も何者かになりたい、と、焦燥に駆られる経験をしている人は、きっと私だけではないはず。

けれど、自分の身体を形成する細胞は自分のオリジナルだ。それだけで立派なアイデンティ。自分という植物が、ぐんぐん育つための土壌環境、気温、湿度に諸々の条件は、その植物の数だけ存在する。そこで大切なのは、自分の気持ちいいという感覚を大切にすることである。自分に嘘をつかない。簡潔でとても難しい。だからこそ、小さい自分に声をかけるように自分に相談しながら進めていけばいいと思う。

自分は分かってる。なんて思わず、死ぬまで自分色の納得いく生き方を模索していくのが活ではないのだろうか。

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