千円札2枚を手に、今日、私はバレンタインチョコを買おうとショーケースとにらめっこする女子の一員になる。
「自分用のご褒美チョコを買うぞ!」
チョコをもらえる側になりたいのなら、自分でなれば良くない?
私は当時、駅前のファッションビルで働いていた。
その一階にはご贈答品にするようなお菓子屋さんや、ちょっとお高めのパン屋さんなんかが入っている。バレンタインの時期になると、チョコを求める人たち……特に若い女性客で賑わう。
それを私は仕事帰りでクタクタの体を引きずりながら横目で眺めるばかりだった。贈る相手のことを思い浮かべながらショーケースを眺める乙女たちの姿は、なんだかキラキラと眩しく思えたものだ。
「いいなあ、あのチョコレート。あっちのチョコの箱のデザイン、すごくかわいい」
おしゃれで贅沢なチョコレートへの憧れ。まるで宝石店のジュエリーのようにショーケースに並べられたチョコたち。あの甘い宝石たちはどんな味がするのだろう。
私が男の子だったら、あんなかわいいチョコもらっただけで好きになっちゃいそう。どうせならあげる側じゃなくてもらえる側になりた〜い……。いや、自分でなれば良くない?自分にあげれば良くない?
そうと決めたら早かった。その日はもう閉店近くだったので、ちょっとだけ下見して、決行日は次の早上がりの日にすることにした。
こうして私は自分にチョコレートをプレゼントするために、バレンタインにチョコをあげる側の女子になったのである。
甘めメイクで臨んだ決行日。気持ちを奮い立たせて足を踏み入れたけど
決行日、私はAラインのコートにロングのフレアスカートという、普段ならただの仕事帰りには着ないような外出着に身を包んでいた。メイクもちょっと甘めなピンクでまとめて。せっかくちょっと贅沢なチョコレートを選ぶのだから気分から味わわないと、というのが私のポリシーである。
チョコレートのコーナーはバレンタインデーが近いからか、数日前よりもさらに混み合っていた。
人、人、人。
店舗によっては待機列すらできている。人混みが苦手な私からしたら、すでにげんなりの状況である。
この中に行くのか?このまま帰る?
一瞬そう思った。でもせっかくここまで準備したのだ。ここにいるのは誰もがチョコを求めた同志でありライバルだ。こんなところで尻込みなんかしてられない。
あたい、負けない!
どうにか気持ちを奮い立たせ、おかしなテンションでバレンタインコーナーに足を踏み入れた。
結論から言おう。
あたい、勝てなかったよ……!
そう、私はあれだけ準備をしたのにも関わらず、何も買うことなく帰路につく羽目になったのである。それはなぜか?
まず、人が多すぎた。待機列の隙間からショーケースが……見えない。人で見えない。これでは選びようがないし、並んだからといってこれだ!と思うような理想のチョコがあるとも限らない。せっかく選ぶならゆっくり選びたい。……が、人が引く気配もない。
でもせっかく来たのだ。どんなものがあるのか確かめたい。押し合いへし合い、どうにか人の流れに沿って各店舗のチョコレートを眺めていくことにした。
キラキラした世界などなかった。間違いなくあそこは戦場だった
進行の自由のほとんどない道を、一歩一歩進む。
「最後尾こちらです〜!」
「◯◯、本日分完売いたしました〜!」
ガヤガヤとした客たちの喧騒の中を、あちこちで飛び交う店員さんたちの声。
ガラスケースと商品の入ったケースの狭い隙間を忙しそうに動きまわる店員さんたちを見て、「ああ、お疲れ様です……」と内心、声をかけて回ってしまう。
見覚えのある、休憩室でたまに会う店員さんたち。あっちのお店のお姉さんは挨拶が元気な人。そっちのお店の店員さんは、休憩室で力尽きたようにテーブルに突っ伏して仮眠をとってたお姉さん。そりゃ疲れるよなあ、これだけのお客さんが一気に押し寄せてくるんだもの。
どうしても思考がお店の人目線になってしまう。お疲れ様です、お疲れ様です……。
店の中は場所によってはまるで通勤電車の中のようになっていた。空調は回ってるとはいえ人混みの中は息苦しく、人々の熱気でチョコレートも溶けてしまうんじゃないかと思うほどの蒸すような暑さだった。コートの中に着ていたセーターの袖が汗でペッタリと肌に張り付く。
不快指数Max。ここはサウナか?
それからは、もうなるようになれと言わんばかりに、人の流れに身を任せ続けた。人の流れが途切れたあたりで、額に浮かぶ汗を乾かすように風が吹き込んできた。店の出入り口だった。私は迷わず、店の外へ出た。二月の北風が冷たくて気持ちよかった。
振り返るとキラキラとしたディスプレイと行き交う人々と暖色のライトで照らされた店内が見えた。チョコは一つも手元にない。
私は思った。
よし、帰ろう。
キラキラした世界などなかった。間違いなくあそこは戦場だった。
手元に残ったままの予算。スーパーで好きなだけチョコを買って帰ろう
帰り道、履きなれないブーツで重くなった足を引きずって歩きながら思う。きっとチョコを買うためにしていた準備の時間が楽しかったんだなあと。
甘い宝石たちの並んだショーケースには結局たどりつけなかったけれど、どんなチョコを買おうか考えながら想像を膨らませた時間と、チョコを選ぶ気分を味わうために服を選んだりメイクをした時間は楽しかった。今回は混雑してて買えなかったけど、またいつか挑戦しよう。
手元に残ったままの2千円。これで近所のスーパーで好きなだけチョコでも買って帰ろう。
きっと今の私には、背伸びした贅沢なチョコレートで味わう少しの贅沢よりも、安いしいつでも手に入るけどまったりと味わえる贅沢くらいがちょうどいい。