もうかがみすととしての寿命が近付いている。もう30歳になる私。

書く場所がなくなり、書くことをやめてしまう前に言葉にすることや、自分に向き合うことが、恐ろしくて、書きたくても書けなかったことを書き残しておこうと思う。

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家庭と結び付けられるようなテーマには絶対投稿をしなかった…書けずにいた。今回だって「最後だからなるべく投稿しようと思っていたのに」とちょっと怒りすら抱いた、悲しみさえ覚えた。

でも、今こうして書かなくてはならないとパソコンに向き合っている。「母」というテーマで思い浮かべようとすると頭の中にもやがかかってぐちゃぐちゃになる。思考回路はショート寸前というのはまさしくこういうことだろうと思う。

けれどここ最近、そのもやの先に小さな灯火のように浮かぶ人がいる。それは母親のような友達…約30歳年上の友達のような母親の世代の人。その人は私が産まれたときに出産祝いを届けに来て会って以来、つまりは約30年会っていなかった。当然のことながら私はその頃1歳くらいか、生後何ヶ月だかの為、全く記憶に残ってはいない。

だがその名前は度々耳にすることがあり、入学の際にはお祝いが来たりして、聞き覚えがあった。その人とネット社会の恩恵に預かり、偶然画面上を通じて出会い、何度かメールのやり取りをするなかでお茶をすることになった。

どんな容姿なのか?メールをする中で写真を交換をしたりすることはなかったが待ち合わせ場所で、たくさん人がいる中で「あ!この人だ」となんとなく導かれるようにわかった。

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そしてお茶をする中で驚いたのが価値観や境遇がとても良く似ているということ。紅茶が好き、というのは誰でも共通しそうだし、イギリス人の多くと共通する。だがそれだけではなく、好きなドラマや、好きな歌手も同じ。

なんならちょっと顔も似ている。写真を見せたら親子と言われるかもしれない。それは少しくすぐったくて、涙が出るほど嬉しかった。私にとって血の繋がっている人は「LGBTQを気持ち悪い」というのに対し、その人は「今は好きに生きられる時代だよ」と肯定してくれる。

何も偽らなくていい、太宰治の「人間失格」でいう「道化」を演じなくていい、私のままの私でいられる。それは決して所詮は他人だから、無関係だから、いいことだけ言えるのだろうという人もいるかもしれないけれど、でも私にとってはその一言がとても心を軽くしてくれる。人間でいさせてくれる。

向かい合って渋いマスターの営む純喫茶で紅茶を啜り他愛もない話をする度に私は、初めて「母性」というものに触れられた気がする。30歳年上の友達は、ずっと独身で、子供はいないけれど、確かにそれは「母性」というものだと思う。

血は繋がらなくても、穏やかな「母性」のようなものに包まれるのは悪くはない。温かな言葉と肯定を含んだ「母性」は、欠落だらけの私だけれども存在してもよいのだと教えてくれる。

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この世界は血だとか遺伝子だとかそういう生物学上の繋がりを重視してるでもどこかの少年漫画で「血より濃いものがある」なんて台詞があったけれど私にとって「母のような友達」であり「友達のような血の繋がりはなくても心が繋がる母」と言葉を交わす度に血というものはあまり関係ないのかもしれないと思えるのだ。

「母性」というものは血が繋がった人間だけに抱くものではない、血よりも、どれだけ想うか、愛おしく感じるか、慈しめるか、そしてそれを「母性」と呼ぶのではないかと思う。さあ、ここでQ。私には「母性」というものがあるのだろうか。それがここ最近の方程式のない難題だ。

猫は愛しくて、抱きしめたくなっちゃうけれど、きっとそれとはまた別物なのだろう。友達から送られてくる年賀状やSNSのアイコンには、小さな生命を抱く、記憶の中の笑顔よりも歳を重ねた笑顔を浮かべたものになりつつあるけれど、私にとってはそれはとても遠いし、この世界は私にまだ優しくなくて、彼女たちのようになれるかはわからない。

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でもぼんやりと、ずっと昔から思っていることが、血の繋がらない友達から「母性」を教えられてから、くっきりと現実にしたいと思えるようになってきた。いつか私は児童養護施設に関わる仕事をしてみたい。それがどんな形かはわからないけれど。

もしかしたら年末に宝くじを買って、一等が当たって、児童養護施設を建設するかもしれない、ただ寄付をしたり、ボランティアをするだけかもしれない。今月で「かがみすと」としての寿命を迎えてしまうから、これからのことを書き記せないことはとても残念に思うけれど、でも30歳を目前に私は今そんな気持ちを噛み締めている。

私のような欠落だらけの人間がそんな夢を抱くことは、エゴかもしれないし、偽善的かもしれないけれどでも、誰かに「母性」を与える側にもなってみたい。…そういうとどうしても自分本位の願いのように思えてしまうかもしれないけれど、そうではなくて。

おすそ分け、をしたいような気持ちなだ。例えば良い味付け、最高の見栄えの肉じゃががここにあるとしよう。自分ひとりで食べるのは惜しくはないだろうか。「ちょっと食べてみないー?」と分け合いたくならないだろうか。私にとって「母性」というものはそんな感じの温かさ。

人を慈しむ気持ちを知った、それはもう身に余るほどの温もりだから、私一人で抱えておけない、私なんかには勿体無い、だから分け与えなくてはいけないと思う。

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私は将来子供を産むかもしれないし、産まないかもしれない、産めないかもしれない。でも私の考える「母性」とは。教科書通りの正解ではないかもしれないのだ血なんてどうでもいいのだ。そんな体内を流れてるだけの赤い液体がなんだというのだ。

血が繋がってるとか繋がっていないとかはどうでもいいから「母性」で誰かを抱きしめられる人になりたい、誰かを慈しめる人でありたい、そしてその数は10人、20人…100人…いやそれ以上だって、多ければ多いほうがいい、そう思えるようになったから私は無敵未来のビッグマザーだ。