母の日が嫌いだ。理由があってのことだが、私は祝う側の人間なので、そんなこと言うと薄情者だと思われるから滅多に言わない。
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母の日のプレゼントの定番はカーネーション。とってつけたわけではなく、由来があるものだ。でも、母の日はカーネーション、そこで思考停止していないだろうか。
お花好きなお母さんなら喜ぶだろう。でも中には、お花のお世話が面倒だ、どうしても植物を枯らしてしまうというお母さんもいるだろう。お花はもらって終わりではない。それが切り花でも鉢植えでもお世話しなければならない。それはただでさえ忙しいお母さんの仕事を増やしてはいないか。あげた側がお世話もするなら話は別だが。
感謝の証としてのプレゼントなのに負担になっていないか。感謝とは何か、プレゼントとは何か、考えてしまう。とってつけたようなプレゼントを送るくらいなら、日頃からお皿の一枚でも多く洗ったらいいのではないかとも思ってしまう。
そして母の日にご馳走を食べるかもしれない。お母さんの好物を用意したり、好きなお店に食べに行ったりするのはベストだろう。しかし、母の日という名目で己が食べたいものを食べ散らかしていないか。ちゃんとお母さんのこと考えているか。そして外食ならまだいい。テイクアウトなどで家で食べたりする場合、用意や後片付けは誰がやっているか。まさかお母さんにさせてないだろうか。もうなんのための母の日だろうか。
そもそも「母の日に感謝を」という意の文言をよく目にするが、それにイラっとしてしまう。母の日に限らず感謝しろよ、そしてそれはちゃんと伝えろよと思ってしまう。
感謝というと大げさに聞こえるかもしれないが、いただきます、ごちそうさまも立派な感謝の言葉だと思う。日々のそれらをないがしろにしてないか。年に一回の母の日さえこなせば、後、一年は安泰とかそういう話ではないのだ。
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祝う側でしかない私がこう考えてしまうのは、父が母の日をこのように扱っていたからだ。父は記念日にこだわるものの、なぜそれを祝うのか、祝われる側の気持ちや事情などは考えていなかったように見えた。
祝うのは当たり前で、祝われることを喜ぶのも当たり前だったのだろう。それが祝われる側に寄り添っていない祝い方でも。とってつけたようなプレゼントを用意し、相手の事情はお構い無しだった。家族の誕生日や母の日などの行事を大事にしたが、その日に用事が入りでもしたら烈火のごとく怒った。私はちゃんと埋め合わせもした。祝われる当の本人は気にしてないのに父一人が怒っていた。その日に祝うことだけが記念日でもないのに。
一番嫌だったのはお彼岸などのお墓参りだった。我が家は交通渋滞を避けるため、お彼岸より若干フライングでお墓参りに行く。それがほぼ毎年、私が楽しみにしている地元イベントと被る。父がわざとやっているのではないかと思うほどだ。
イベントに行きたいと言えばいいじゃないかと思うかもしれない。しかし、そんなことを言った日には大変なことになる。父のもとでは私には発言権がない。ご先祖さまは大事かもしれないが、それと同じくらい生きている人間も大事なのではないかと思っていた。
父のお墓参りに対する執着には理由がある。昔、そういうものをないがしろにした時、不幸が起き、大事にするようになったらしい。わからなくもないが目的と手段がごっちゃごちゃになっている気がする。母にはモラハラ、私には虐待していた父は何を大事にしたかったのだろうか。
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今や私は父に耐えきれず、距離を置いている。どこで何をしているかも伝えていない。
そのため母の日は贈り物もできないし、手紙やLINEもできない。LINEくらいと思うかもしれないが、メッセージが父の目に触れ、父の怒りが母に向かう可能性がある。
私に早く自由になってほしいと願っていた母だ。私が今、元気に過ごすことが母へのいちばんの贈り物なのかもしれない。