「誕生日」と聞いて真っ先に思い出すのは、自分が祝われたことよりも、ある親しい友人にプレゼントを送ったことだ。
昨年の思い出。人生で初めて“その人が欲しそうなもの”ではなく“自分があげたいもの”を送った日。友人の華やかな20歳の誕生日であったと同時に、自分の心の成長に小さな祝福をあげた記念日。
ふらっと入ったお店で目に入った1冊のノートを見て、真っ先にその友人の顔が頭に浮かび、気がつけば私はそのノートを手に取ってレジでラッピングをして貰っていた。
店を出て綺麗に包装されたプレゼントを見つめ我に返る。初めての経験だった。
今まで私は人のプレゼントを選ぶ時、大抵めちゃくちゃ悩んでいた。これは持っているかもしれないだの、使わないのにもらったら迷惑だろうだの、キリが無いところまでひたすら悩む。そもそも私自身、プレゼントを貰うことが申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうため得意ではなかった。そして色々考えた挙句、いつもたどり着くのは無難なハンカチ。
そんな何かと気疲れしてしまうプレゼント選びを孕んだ誕生日自体が最近は億劫になっていた。
だからこそ自分の取った、考えずに選ぶ、何なら選んですらいない行動に自分でも驚いた。
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その友人は私が人生で初めて心の底から思っていることを共有できる存在だ。今まで自分の考えを言わないように生きていた私にとって、彼女はとても特別だった。
そんな彼女に向けたノート。
今までひとりでひっそりと書き溜めていたエッセイを初めて彼女に読んでもらって、「あなたの文章が好き。あなたには文才がある」と言ってくれた。それが当時の私にとってとても嬉しくて、なんとも言えない新鮮な気持ちに包まれた。
彼女にとっても私は人生で初めての理解者だったらしく、心の底から思っていることを共有できる喜びを普段から伝えてくれていた。
そんな友人に送りたいと思ったノート。
私にとってノートは友達のようなもので、誰にも言えないことを密かに文章として残すことで、自分と自分自身のコミュニケーションをしている。私のことを理解してくれる彼女ならきっと喜んで受け取ってくれると、そう思った。
そんな想いで誕生日当日、友人にそれをプレゼントした。彼女は案の定とても喜んでくれて、書き留めたいほど大切な事が起こる度に1つずつ書いていくと言ってくれた。
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そもそもこの「ものを見ただけで顔が浮かぶ」ってよっぽど仲が良くないと起こらないことで、それだけの仲の良さだとすれば誕生日とか節目の記念日にかかわらず、日常的に沢山のプレゼント交換をしているんだと思う。言葉にしろ行動にしろ、相手の大切な時間や記憶を私にプレゼントしてくれている気がするのだ。
プレゼントが嬉しいのはそれが欲しいものだったからではなく、相手が自分のために沢山悩んでくれた背景が透けて見えるからだ。そう考えたらやっぱり大切なのは気持ちで、だとすればプレゼント交換は別に365日分の1日の特別な日だけじゃなくても出来る。というのが前提にあったうえで、日々自分の全てを受け止めてくれる最高の友人に「いつもありがとう」と心からの「生まれてきてくれてありがとう」を心置き無く伝えられるのが誕生日だと気がついた。
この考え方が出来るようになってから、私は誕生日という行事が少しだけ好きになった。
これに気づかせてくれた友人の誕生日。
これからも思い出とか笑顔とか、形には残らないプレゼントの交換を沢山しながら一緒に成長して欲しいなぁって思います。
そして彼女が何気なく「あなたの文章が好き」と言ってくれたことで、私は今もこうして文章を書き続けていられることにとても感謝している。