隣に住むおばあちゃんから、ハイ、と渡されたのはブルーベリーのソースがかかったワッフルだった。カフェの近くで用事があって、そのついでに買ったの。良かったらと早口で言われたその理由がでっちあげの嘘だとは、気づかないふりをした。

今日、3月のある日、私は誕生日を迎えた。今年は兄弟の進学に伴う引っ越しで実家もバタバタと忙しない春だったこともあり、自分の中でもさほど誕生日というムードもなかった。子供の頃のような誕生日のソワソワした気持ちも、年々薄まっていくものである。しかし、実際に「誕生日おめでとう」と言われると嬉しいもので、友人からの連絡も嬉しい。家族にも祝われ、誕生日だ、と実感の湧いたところで訪ねてきたのがおばあちゃんだった。実家とおばあちゃんの家は隣接しており、たびたび顔を合わせ、外出の時は声を掛け合ったりと、それなりに毎日会話しているものだが今日はどこかよそよそしかった。おばあちゃんなりに気を使わせまいと振る舞ってくれたのだろうか。わかりやすい嘘を思い出し、少し笑みがこぼれた。

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ワッフルの上にかかったソースは自家製のようで、ブルーベリーがそのままの形で入っておりフォークでワッフルにせると皿にごろんと落ちた。去年の誕生日を思い出す。今日と同じように扉を叩いたおばあちゃんは、私に封筒を差し出した。手短に、ハイと渡すと、またねと去った。その様子は今日と同様に少しぎこちなく、よそよそしい。封筒には一言、「誕生日は生まれてきてくれてありがとう。の日だよ」と書かれていた。その一言を見た瞬間、中に入っている万札よりもおばあちゃんの届けたかった気持ちが打たれるように分かって、目頭が熱くなった。

実家には、大学をやめて帰ってきたばかりだった。帰った日、おばあちゃんは何も聞かずにいてくれた。言おうとすれば励ましも叱咤もいくらでもあっただろう。何も言わず、聞かず、ただいつものようにたくさんの料理を出して食卓に招いてくれた。その優しさの最上級が、絞り出した言葉が、この封筒の一言なのだろう。おばあちゃんの優しさに身を包まれたようで、誕生日だということすら忘れて涙を流した。

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ワッフルをフォークで刺す。まだ温かさが残っている。カフェから急いで持って帰るおばあちゃんを想像すると、去年の封筒を見た時と同じ気持ちになった。生まれてきてくれてありがとうの日。生まれてきてくれてありがとう。ありきたりな言葉かもしれないが、生きていて初めて言われた言葉を反芻する。生きていると、「生きている意味」が分からなくなる時がある。「生まれてきた意味」も見えなくなる。「生まれてきたこと」それ自体を憎んでしまうことがある。それでも生きることをやめないでいるのは、生きることをやめたくなる時に繋ぎ止めてくれるのは、いつかもらった封筒だったり、誕生日に「たまたま」届けてくれるワッフルかもしれない。

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春はそれ自体が祝福である。弟は卒業し、進学する。ある友人は就職する。ある友人は大学院に進む。私は誕生日を迎える。大人になって年をとった喜びを感じなくなっても、私が生まれてきたことを私も祝福したい。あたたかな一言が、一つのワッフルが、そう思わせてくれることが嬉しいのだ。
いつの間にか皿は空になっている。今度食べる時は隣におばあちゃんも座っているのだろうか。

考える前に、明日は一緒にカフェに行こうと誘いに飛び出した。