思い出深かったお祝いの日は、18歳と20歳の誕生日である。
18歳の誕生日の朝、わたしは部室に呼び出された。すでに引退していたから部室を訪れるのは久しぶり。着いてドアを開けると、パン!パン!というクラッカーの音に少し遅れてキラキラのテープがたくさん降ってきた。
同じ部活の同期たちが「どう?びっくりした?嬉しい?」と言わんばかりの顔をしてこちらを見つめてくる。そして間髪入れず手元にあふれるプレゼントの山。とても幸せなバースデーサプライズだった。
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当時わたしたちは受験生。文系と理系でクラスが違う同期とは1週間に1度話せれば良い方というくらい勉強に打ち込んでいたので、彼女たちと話せるだけで幸せだった。
しばらく話しているうちに、1人が「残星の18歳の抱負は?」と尋ねてきた。受験生でみんな進路のことを考えているときだったから、一斉に注目が集まった。浮かんだ答えは一つ。「絶対に志望してる学科に受かる。何がなんでも」。
わたしが志望していた学科はそれなりに難しく、前年度の合格実績から考えても中々厳しいチャレンジだった。言い切ったとき、なんとも言えない焦りと不思議なくらいの爽快感に包まれたことを覚えている。
今でも当時の同期たちと集まるとその宣言のことを話されるくらいには、同期たちにとって印象的だったらしい。進路のことでナーバスになっている中で豪胆に言い切ってしまったけれど、あの宣言は我ながらかっこよかったと思う。
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そうして希望の進路に進んだわたしにとって、人生で一番印象的だったのは20歳の誕生日。日付が変わる瞬間は日記を書いていた。同時に、わたしはとある友人の年齢を明確に追い越した。
「追い越してみた。特に何も変わらない。わたしはわたしのままで、強いて言うなら、今コンビニで学生証を出したらお酒や煙草を買える。大人、になったんだと思う。なんとなく今、誰かの夢を後押しできる存在になりたいなんて大それたことを考えている。わたしはそれができるかもしれない。可能性はあると思う。可能性を持っているだけで幸せだと思う」
日記には、漠然とした戸惑いと、青い夢が綴られている。
こんなに痛い誕生日は初めてだった。友人の死が、今までよりもさらに明確な形をもって感じられた。
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この日以降、わたしは自分の誕生日が苦手になった。友人の年齢から遠ざかり、いつか彼女のことを忘れてしまうのではないかと思うと怖いのだ。逆に、他人の誕生日はより好きになった。ひとが歳を重ねられることがとても尊いことであると実感できたのだと思う。
少し前に、『いつかの君にもわかること』という映画を観た。余命わずかなシングルファーザーが、息子から1本の赤いロウソクを贈られるシーンがある。息子も、観客も、父親がまたひとつ歳を重ねられることを切実に願う。しかし、それは叶わないであろうことが明確に描写されている、ある種残酷なシーンだ。
大好きで大切な人たちの誕生日を祝うたびに、友人のことを思い出す。バースデーケーキのロウソクを見るたびに、彼女にロウソクを差し出したくなる。この気持ちを上手く表現する言葉を、わたしはまだ見つけられていない。