母は長女である私の優しさというものを、亡くなる数ヶ月前まで理解していなかった。

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三人兄妹の真ん中の私は、親に対して正直に、とことんものをいうため「アンタはもう…」と一番ややこしい存在だった。しかし性格がはっきりしていてわかりやすいともいわれた。
兄や妹の性格はおとなしく、どこか親に遠慮してものをいうところがあり、そのような態度は親にとっては優しい子供の印象と映っていたようだ。
ふたりは怒られることはあっても、両親と言い争っていた記憶はない。

人は自分に都合のいい答えを選び、それを拠り所として生きていくところがある。自分でもそうだと思うが、兄妹は親に対する、子供の態度として良しとする言葉で会話ができていたのだと思う。
確かに私はよく親と大声で喧嘩していた。今思うと、それは家族に理解されないことに対するジレンマからきていたのではないだろうか。

特に若い頃は、人は誰しもその時代や先人の考え方に支配されながら人生を送ることになる。「今の若者は…」などというありふれた言葉は、お互いの時代背景の違いから来る、相互の不理解により、人生の途中で思わず口から時代の中にこぼれ落ちる言葉ではなかろうか。

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私は決して無茶をいうタイプではなく、短気というほどでもない。
ただ狡い事や納得のいかないことが大嫌いだった。なので、とことん言い返していた。感じたことをそのまま率直に口に出す内容は、ある意味親にとっては都合が悪く、もし図星ならその言葉は心に刺さり、傷つけてしまい、気持ちを逆撫でして、親の感情に引火する。
特に専業主婦で関わる時間の長い母親には気遣いのない娘と映っただろう。

私からすると、取り繕わずに思っていることをそのまま言うことについて、大人になった今だから言葉にできることがある。相手は自分を育ててきた、他でもない血の繋がった親であり、この世で唯一無二の存在。正直に伝える他でもない相手であり、それ以外の言葉など私に思いつくはずがなく、他人にするような、オブラートに包む言葉など使う相手ではない。それが私だった。

それはちょうど、学生時代の教科書にあったシェイクスピアのリア王に登場する三人娘のうち、父リア王に対して口に絹着せぬ進言で、うとまがられていた三女のコーディリア姫と一緒だ。そう思いながらひとりほくそ笑んでいた。なぜならそのストーリーの王の悲惨な結末が、ある意味私の正当性が教科書の中に文章として残されていたことになるのだから。

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この昭和ヒトケタ世代の両親を見送って10年以上が経った。
母は父より先に、阪神大震災の心労が重なって長年患っていた病気が悪化し入退院の繰り返しのあと、私が36歳の時に亡くなった。

母の入院生活があった頃の私は、遠距離通勤にかなり悩んでいた時期であり、ヘトヘトな状態でさらに母のいる病院へ立ち寄っていた。その時点で空腹が極限に達するため、コンビニで買ったものをベッド脇でサッと食べた。母の目に私は、見舞いに来ていきなり隣で弁当を食べて帰る人、と見えていたらしい。照れか本気か、何気なく言ったのかもしれないが、食べている姿がクローズアップされ、父から文句をいわれたことがあった。

溜まった洗濯や下の世話をして、病院を後にするのが22時から23時。病院という場所は健康な人のエネルギーまでも吸い取るようだった。25時以降に寝て、朝6時前に起床。そんな中での先の見えない介護もまた辛い時期だった。

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母の病室は二人部屋で、隣の患者さんの家族は昼間に面会に来ていた。
何も言わない母は、それをどう思っていたかはわからないが、隣の家族が昼間に来て過ごす時間に、仕切りのカーテン越しにひとりでいる母を思うと申し訳なく思え、私は隣には迷惑にならないよう、最終面会時間を過ぎても帰らず、母が寝る前までポツリポツリと時々話をしながらそばにいた。それはお隣からも看護師さんからも咎められることはなかった。一日の最後に家族と一緒にいて、そのまま寝入ってもらいたい気持ちからそうしていたのだ。

そして母が亡くなる数ヶ月前のこと、母は遅い時間までベッドの横にいる私にこう言った。

「黙ってそばにいるのがアンタの優しさなのかなぁって思った」

私はふいに込み上げるものと涙腺の緩みを抑えて「うん」とだけ返した。
その通りだ、当たり前だ、今頃なに!?と心の中で返していた。

確かに私は父と母に対してよく反発し喧嘩もした。
しかしそれは大人になり、一番正直に家族として向き合い、感情を交わした証拠だと今は思っている。