私には、「母」と呼ばれる人が3人いる。私を産んだ母、育てた母、戸籍上の母。とは言っても、戸籍上の母は数年前に父と離婚したため、今では私のことも忘れ、遠い地で生きているのだろう。これからここに記すのは、それぞれの母と過ごした日々、そして私の母に対する思いである。
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産みの母は優しく、流行に敏感で、とても料理が上手な人だったと聞いている。なぜ人伝いに聞いた話なのかというと、私の母は、私が1歳になるちょうど20日前に交通事故に遭い、帰らぬ人となったのだ。享年36歳。あまりにも早すぎる死だった。
10歳以上年の離れた兄と姉には母の記憶があるが、私は母の声も温もりも、何も思い出すことができない。周りの子たちには当たり前のように母がいるが、それと同じように、私には母がいないことこそが当たり前だった。
「なぜ我が家には母がいないのだろう」そんなことを思っても、母がいないことへの悲しみや苦しみを強く感じることなくここまで生きてこられたのは、「育ての母」でもある祖母の存在が大きい。
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子どもも手を離れ、たくさんの孫にも恵まれ、老後を楽しもうとしていた矢先に事故は起こった。息子の妻が交通事故に遭ったのだ。残されたのは実の息子である私の父と、当時中学生だった兄、小学生の姉、そしてまだ1歳にも満たない私。
誰がこの子たちを育てるのか。末の子だけでも従妹の家に養子にだしたほうがいいのではないか、そんな話が飛び交う中、祖母は強くこう言った。「この子は自分が責任をもって立派に育てる」と。
この話を私が知ったのは、祖母が末期がんと診断され、余命半年と宣告されたときのことだった。当時私は17歳、祖母は70歳を過ぎていた。最期まで末の「娘」である私を心配していた「母」。高校の卒業式も、成人式の振袖姿も、人生の一大イベントを間近で見てほしかった。その夢は叶うことなく、静かに消えてしまった。
祖母とはたくさんぶつかった。将来のこと、勉強のこと、バイトのこと、家のこと。本当に本当にたくさん喧嘩した。それでも嫌いにはならなかった。それが「親子」というものだからだろうか。余命宣告されたとき、「お前がしっかりしなきゃいけないんだぞ」と、目にいっぱいの涙を溜めて、私に強く訴えた祖母の顔を、声を、今でもはっきりと覚えている。
忘れることなんてできない。忘れたくない。なぜなら、ここまで歩んでこられたのは、育ての母である祖母のおかげだと、胸を張って言えるからだ。だから、その私が弱気になってはいけないのだ。祖母の言う通り、強くしっかりと生きていかなければならないと、自分に言い聞かせる日々である。
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そして最後に、「戸籍上の母」について。私が20歳の時に父が何の前触れもなく再婚した。私たち兄妹に事前に知らせなかったのは、絶対に反対されると思ったからだろう。もしそれが思春期の頃だったら、私は間違いなく反対していた。
昔、「もしお父さんがほかの人と再婚したらどうする?」と私に尋ねたことがあった。その質問の直後、「そしたら絶対に実家には帰らない。お墓参りの時しか地元には来ない」と即答したことがあった。きっと父もそのことを気にしていたのだろう。
でも、私は父の孤独も知っている。私が専門学校進学に伴い、実家をでることになった時、お風呂場から父のひとり言が聞こえてきたのだ。「あぁ、みんないなくなっちゃうんだなぁ」と。寂しく、小さな声だった。
それを聞いた瞬間に、「私は寂しさを抱えた父になんてひどいことを言ってしまったのだろう」と、再婚の例え話が出た時のことを強く後悔した。父も私たちと同じように、喪失感に毎日苦しんでいたのかもしれない。そう考えたら、父の再婚を許さないとは、もう言えなかった。
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父の再婚相手は、父よりも若く、料理ができる少しシャイな人だった。話はそこまですることはなかったが、テキパキと家のことをしていたように思える。父を支えていってほしいと願う反面、私にとってはとある切ない出来事が起こった。
ワインを飲みたいと父が言い出したので、コルク抜きを取りに台所に行った時のことだ。家中の掃除は、実家を出るまでの間ずっと私の役割だった。どこになにがあるかも、全て把握していた。それなのに、どこを探してもコルク抜きが見つからない。
それを見た「母」が、「ここにあるよ」と私の知らない場所から取り出したのだ。その瞬間、私の中でとてつもない劣等感と喪失感が大きな音を立てて私を呑み込もうとした。「18年間この家に住んだ私より、たった数か月しか住んでいないこの人のほうが、この家のことをよく知っている」と。
でも、それでいいのだ。そうあるべきなのだ。だって私はずっとこの家にはいられないから。この人がこれからここで暮らしていくのだから。そう自分に言い聞かせて、新しい家族の形を受け入れることにした。
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月日が経ち、父とその人はどうやら上手くいかなかったようで、離婚することになったと父からの電話で知った。「まぁ、しかたないんじゃない?」と言うのが精一杯だった。増えた家族が減ってしまった。それでもお互いが幸せになるために、2人で選んだ道を、私がとやかく言う資格はないと思ったからだ。会った回数は少ないにしても、確かに私たちは家族だった。私のことを覚えていても、そうじゃなくても、どうか健康に生きていてほしい。
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3人の母の存在のおかげで、今の私は在ると思っている。これまでの人生全てが、私という人間を創り出したのだから。もし、直接伝えることができるのなら、私は母たちに迷わずこう言うだろう。「娘にしてくれてありがとう」と。