ツヤツヤの苺が乗ったケーキ、自分の息でゆらゆら揺れるロウソクの火、包み紙を破る瞬間が楽しみなプレゼント。子供の頃は誕生日やクリスマスに胸を踊らせていた。でも大人になってからは、祝われるよりも祝う方が好きになった。
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そう思うようになったのはここ2、3年だ。自分の年齢が20代後半に入った今日この頃、人の死に触れる機会が増えた。
ご近所さん、友人の親、祖父、祖母。棺の中で眠る彼らは青白くて、頬に触れるとひんやり冷たかった。ああ、もう動かないんだなぁ。もう声も聞けない。名前を呼んでもらえないし、抱きしめてもらえない。ありがとうも大好きも言えない。
よく考えたら、この人に「おめでとう」と言ったことは無かったな、とか。お葬式の日になって気づいたりする。でももう遅い。死んでしまっているから。遅いよね。ごめんね。私、あなたのことが大好きだった。この気持ちはきちんと伝わっていたのだろうか。
それも確認できない。死んでしまっているから。ちゃんと生きている間に言わないと、意味がないんだなあ。恥ずかしがって隠していたって意味が無い。心の中にしまっておくのはとても勿体ない。
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人生の節目にお祝いしたい人はどれだけいるだろう。死ぬまでに、あと何回お祝いさせてもらえるだろう。何回「おめでとう」を言わせてもらえるだろう。
この経験から私は、家族や友人に会う度に「おめでとう。何でもない日」「生まれてきてくれてありがとう」と思うようになった。ハンプティーダンプティーのように。
十月十日お母さんのお腹の中ですくすく育って、無事に産まれてきてくれたこと、私に出会ってくれたこと、仲良くなってくれたこと、今日まで関係を繋ぎ続けてくれたこと。奇跡なんて言葉を使うと胡散臭くなるが。本当に奇跡的なことだと思う。
私はスピリチュアル関連のことに関心は無いが、御先祖様がこの人に巡り合わせてくれたのだろうか、と思ったりもする。そのくらい私の周りにいるのは優しく良い人ばかりだ。
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だからこそ、彼等に感謝の気持ちや労る気持ちをちょっとずつ表現したい。年に一度の誕生日だけと勿体ぶらずに年に2回でも3回でも。
高額なものを突然贈ると気を遣わせてしまうので、何かと理由をつけてちょっとした物を。
本を借りたお礼にクッキー、東京から帰省してきた友人に可愛い入浴剤。どれも数百円のささやかなものだが、「ありがとう」「貴方に会えて嬉しいです」といった気持ちをそのプレゼントに込めて渡している。
これがとても楽しい。仕事終わりにぼんやりと街を歩いている時でも、雑貨屋さんの店頭で可愛らしいパッケージのスイーツなんかが売られていると、「あの子にプレゼントしたら喜んでもらえるかも」なんてことを考えながらウキウキと家路につくことができる。
ちなみに、友人や夫に贈りたい物の候補リストを確認すると合計51個あった。死ぬまでに全て渡すことができるだろうか。
今は高校時代の友人に内祝いで贈るものを探しているところだ。仕事が大変で転職を考えている子なので、「ホッとひと息ついてね」という気持ちを込めてホットアイマスクなんかどうだろう。この季節だと苺の香りがする商品なんかもあって面白い。
リラックスグッズは「身体を大事にしてね」「休んでね」という思いがダイレクトに伝わるので好きだ。目を温めてぐっすり眠ってほしい。
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そして先日、義姉に赤ちゃんが産まれた。私にとってはじめての甥っ子。またお祝いしたい人が増えた。さて、何を贈ろうか。