思わず付け足した「行きたい」の一言。寺に行きたい女子大生の私

大学2年生のある日、私は東京で仏教美術史の授業を受けていた。丸眼鏡をかけた小柄な女性教授はうっとりとした表情で、とあるお寺の説明をしてくれた。
「夕暮れ時になると、仏像の後ろにある窓から夕陽が差し込んで、まるで本当に仏像が光っているかのように見えるんです。それはそれは美しいんですよ」
ノートに書いたそのお寺の名前の横に、私は一言付け足した。

『行きたい!!!』

異国の壮大な景色や文化に憧れるのではなく、私はただひたすらに、寺に行きたい女子大生だった。

作り上げた8日間の予定表。6日目で念願のお寺に行くはずだったけど

就職活動が終わると、まず講義で使ったノートを取り出した。行きたいと思っていた寺々をピックアップし、どれくらいの期間で回れるか夏休みの計画を練る。
青春18きっぷを購入し、ウィークリーマンションを契約。京都駅を拠点に、8日間寺三昧の予定表を作り上げた。もちろん一人旅である。

あっという間に旅行当日となり、序盤に京都駅周辺の寺を回った私は、ついに6日目、念願だったあの寺へ行く事にした。最寄り駅は分かっている。電車も下調べ済み。準備万端、のはずだった。

昼過ぎに駅に着いた。そこでようやく気付く。寺まで向かうバスがない。正確に言えば、午前と午後に一本ずつしかない。夕方に出る午後のバスだと寺の開門時間に間に合わない。
親切な駅員さんにその事実を告げられて絶句したのち、私は真夏の炎天下、1時間歩いて目的地へ向かうことにした。

グーグルマップを頼りに黙々と歩くうちに悟る。現代において、建物が出来た当時と同じように室内に夕陽が差し込むということは、周りに建物が何もないということなのだ。見渡す限り畑、畑、畑……。

駅で買ったペットボトルが命綱、誰かを頼ろうにも時々走る車以外人影がないという緊張感。熱中症で倒れても誰にも助けてもらえないかもしれない。
日本にいるはずなのに、なぜ私はこんなに孤独な旅をしているのかと自問しながら歩いているとようやくたどり着いた。

過去を辿る旅はいつも新しい。先人たちが残してくれたものに揺れる心

14時半から17時までの2時間半、私はじっくり堂内を鑑賞した。仏像は三体、すべて雲をかたどった台座に乗っていた。想像以上に大きく、それでいて曲線が滑らかで艶めかしかった。教授の説明通り、夕陽を迎える窓は仏像の真後ろ、足元にあった。

時間の経過とともに窓から差し込む光は少しずつ移動していき、仏像の背中を垂直に照らした時、雲の台座の隙間からも光が溢れた。堂内がぱっと明るくなったかと思うとすぐに日が落ち辺りは暗くなっていった。
堂内には閑けさが残った。

見終わると、大きく深呼吸をした。いつの間にか息を止めていたようだった。身体の力が抜けると、時を超え、建立当時の人々と同じ体験ができたという興奮が少しずつ込み上げてきた。半泣きで歩いてきた時の気持ちなんて、すっかり忘れてしまっていた。

この経験が忘れられず、私は今でも日本各地の寺々を回っている。
過去をたどる旅は、いつも新しい。名前の残らない先人たちが残したものが、私の心を揺さぶるのだ。
それは同時に、何者でもない私に存在する許しを与えてくれるように感じる。そのままでも大丈夫だよと寄り添ってくれる温かさがある。

私にとっての旅は、過去を生きた人々の息遣いを感じるかけがえのない時間だ。