わたしにとって大切な日は、ほんとうに大切にしたい人たちの誕生日である。
高校1年生の頃、わたしのクラスでは女子全員で、クラスの女子11人の誕生日サプライズをしてお祝いしていた。
だから、そのときは朝学校に登校し、教室に入ると誕生日おめでとう〜〜!!」ということばをみんなから投げかけられ、わたしの机の上はだいすきなお菓子でいっぱいになっていた。

高校生の時は、いやでも毎日学校に通わなければならなかったので、自分の誕生日が近づくにつれて、「今年、友だちはどんなお祝いをしてくれるんだろう」「学校でみんなと会えるから、みんなからお祝いされるかな」などといったような、わくわくとしたきもちになっていた。

◎          ◎ 

しかし、大学生になってから特にクラスというものもなくなってしまい、「今年はわたしの誕生日、誰かお祝いしてくれる人いるのかなあ」などと、毎年よく不安になっていたものである。

前まではわたしも自分のSNSなどに、友だちが誕生日のときなどは「〇〇お誕生日おめでとう!いつもありがとう〜!」などと投稿していた時期があった。

その反対に、自分が誕生日のときは友だちのSNSで自分がお祝いされているのを見ると、とたんにうれしいきもちでいっぱいになっていたことが懐かしい。

しかし、いまではそんなこともあまりしなくなってしまったし、友だちでもSNSで誕生日のお祝いしている人をあまり見かけなくなってきた。
それは、一体なぜなのだろう。

◎          ◎ 

たぶんきっと、ほんとうに自分がお祝いしたい人には個人でメッセージを送ってお祝いし、11人が見せかけなんかじゃなくて、友だちと本音で向き合うようになってきたからなのではないかと思う。

高校生のとき、自分もお祝いされるのだから、クラスの女子みんなの誕生日をお祝いすることに、わたしはあまり抵抗を感じていなかった。
しかし、その話を聞いた別のクラスの友だちからは、「なんかそれって、むなしくない?」と言われてしまった記憶がある。

自分がほんとうに誕生日をお祝いしたいというわけではなく、「自分もお祝いされるから」「みんながお祝いしているから」そんな理由でクラスの女子みんなの誕生日を自分はお祝いしていたのではないだろうか。

わたしは友だちのそのことばを聞いたとき、はっとさせられたと同時に、なんとも寂しいきもちになってしまった。

自分の誕生日をちゃんと心からお祝いしたいと思ってくれる人が1人でもいたら、もうそれだけで十分しあわせで、必ずしもたくさんの人からお祝いされることがしあわせに直結するとは限らないのだなと、改めて気づかされたのである。

◎          ◎ 

それからのわたしは、心からお祝いしたいと思った友だちの誕生日を、心ゆくままに、やさしくあたたかいきもちを込めて、ていねいに、そして盛大にお祝いすることにしている。

去年の夏、わたしは誕生日に実家に帰省していた。今年は家族にお祝いしてもらえるから、寂しくないし、とってもわくわくとしたきもちになっていた。

しかし、遠くに住んでいる友達2人が、なんとわたしの誕生日をお祝いしたいということで、わざわざ飛行機に乗って地元に遊びにきてくれたのである。彼女たちからは誕生日サプライズのプレートと共に、わたしへの想いがたっぷりと詰まった手作りのアルバムプレゼントされた。わたしはこの時、その2人のことも、2人の誕生日も、ずっとずっと大切にしよう、そう心に誓ったのである。

あと少しで、だいすきでとっても大切な友だちの誕生日だ。
今年はどんなお祝いをしようかなあ。
そんなことを思いながら、心がすこし、じんわりとあたたかくなった。