男性不信になってもう何年が経つだろうか。
上から目線だったり、平気で尊厳を傷つけてきたり、言葉を全て否定されたり、怒鳴られたり……。そんな男性に囲まれる内に、いつからか私は女性としかつるまなくなった。
仕事をする上でも、男性が怖い、という感情を必死に押し殺している。服薬とカウンセリングで心身を保っているものの、正直、限界が来ようとしていた。
◎ ◎
ある日、私は出張で学会に来ていた。まわり切れないほどの大きな会場、聞ききることのできないほどの多数の講演。何日間も歩き回り、疲れたし、十分な情報収集をしたのもあり、私は早めに切り上げて帰ろうとした。
しかし、その時ばかりはなぜか、もう少し会場にいよう、そんな不思議な感覚があった。結局、業務上必要のない遅くまで残って発表を聞いていた。
「それでは次は〇〇さんです」と座長の声が会場に響く。
特徴的な聞き覚えのある名前に思わず顔を上げた。遠くて表情がよくわからない。パンフレットを開き、発表者の名前を確認する。覚えのある名前に私は動揺した。
でも、同姓同名の人かもしれない。それにしては声が似ている。
発表が終わったあと、その発表者の近くまで行き、すぐそばにいた重鎮に話しかけた。しかし、どうも重鎮の話が耳に入らず、後ろにいる発表者に目がいく。一瞬目が合った気がした。
結局、私は重鎮と長く議論をし、2人で会場を出た。
◎ ◎
会場を出ると、先ほどの発表者が廊下で待っていた。私はチラリと目を向ける。発表者と目が合った。しかし、そのまま、発表者を無視するように、重鎮と話しながら廊下を歩き、角を曲がった。
重鎮とは、クロークの前で別れた。私は、クロークで荷物を受け取るために、番号札を預けた。
思わず振り返って、来た道を見返す。誰もいない廊下の向こうに顔を向ける。さっきの人は……。
しばらくすると、その発表者が私の後を追うようにやってきた。目が合う。相手は恐る恐る私に近づいてくる。私はその相手が誰なのか確認するように、注意深く顔を見続けた。
「そう、だよね?」と私は言うと、にこりと笑顔を向けた。もう6年も会っていない元彼だった。
ほっとした表情で、「元気にしてた?」と彼は私に言うと、にこりと微笑み返した。6年前と変わらぬ笑顔に、私も少し安心した。
でも、元気にしてたかって?元気なんかじゃない。むしろ当時よりずっとつらい。声にならない声を喉に引っ掛けたまま、私は「うん」と小さな嘘をついた。
◎ ◎
帰りの駅まで2人で歩いた。自然と6年前の当時を思い出した。研究者になったことを伝えたら、「夢が叶ったの!?」と彼は自分のことのように喜んでくれた。
私は彼に6年間分の自慢話をした。ずっと自慢したかったし、彼に喜んで欲しかったし、私を振った彼への少しばかりの対抗心からだった。彼は、「それは自慢できる」、「すごいね」、と曇り一つない表情で褒めてくれた。
ああ当時もこんな感じだったな、と私はふと思い出した。彼は私のことをいつも褒めてくれた。私の能力に嫉妬せず、いかなる時も応援してくれていた。そうか、そんな男性も世の中にはいるんだ。確かにいたんだ。
「お元気で」
彼はそう言うと、駅で別れた。この先会うことがあるかはわからない。連絡も取ることはない。でも、「お元気で」という相手を気遣うまじないの言葉で、私は温かい気持ちになった。
この温かな感情を忘れないように、出張から帰った後、何度も何度も心の中で反芻した。次第に当時の記憶や感情を思い出してくる。当時、彼にかなりひどいことをされて別れ、次あったら問い詰めてやると思っていた。しかし、時間の経過で怒りは消えてなくなっていた。
◎ ◎
そう、怒りとは消えるもの。普通は。
何か目に見えない大きな力が、私にも人を好きになり、好きな人から好かれた経験があることを思い出せるために、彼を目の前まで連れてきたのではないか。
彼は私と友達に戻りたがっていた。でもそんなにうまくいかない。
一度一線を越えたら元になど戻れるわけがない。それは私や彼のためでもあるし、お互いのパートナーのためでもある。友達のままだったらどうなっていたんだろう。今でもたまに、遊んだり、相談をしあう、男女の関係とはまた別のパートナーになっていたのだろうか。
当時の思い出話を彼はしていた。きっと、またみんなで遊びたいね、という言葉をぐっと押し殺したに違いない。
元気だよ、と伝えた私の言葉が嘘だと、彼の性格なら、気がついただろう。当時も私のつらさは全てお見通しだった。でも彼はそのことには触れずに、私の話にじっと耳を傾けてくれた。そして私が彼をまた好きになってしまいそうな、許してしまいそうな、そんな気持ちに蓋をするように、もう会わないと思うけどあなたの幸せを願っています、そんな言葉を残してくれたのだろう。
元気だよ、お元気で
素敵な嘘だ。