「わたしと『母親』」の締め切りが5月6日だったと記憶しているが、最終日はまさに時間との闘いだった。書きたいけど、書けない彼について何も思わずにはいられない。親同士も知り合いだから、書き記すのは申し訳ない。でも、書かなければ一生後悔する。こうなったらシステムエラーも含めた時間にお任せしよう!そう言い聞かせた22時40分、私は一人ノートパソコンに彼のことを書き始めた。
「似た境遇を案じつつ口をきいたことがない我々は、歌舞伎町で出会った」
時間内に書き終えることができた安心感半分、採用されたら彼のことを書いた事実が残ってしまう申し訳なさ半分、なんとも表現しがたいこの感情が、日付が変わろうとしていた夜分遅くに襲いかかる。
何か悪事を働いたのか、断固として眠らせない睡眠泥棒が、私の心の中をぐるぐると動き回っている。次の日も、そしてまた次の日も、そいつは私を蝕むように暴れ続けた。採用の連絡が来てほっとしたのもつかの間、私は担当を通して悲しい事実を突きつけられた。
彼は退店し、ホストを引退したらしい。今回はこの話の続編である。
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めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな
紫式部が友との別れを惜しんで詠んだ和歌である。「め」と詠まれた瞬間、競技かるた部の私たちはその札に手を伸ばし、バシっと叩き払う。紫式部の和歌が一字決まりであるという共通認識を共有できる空間が、そこに存在するのである。もし彼が「めぐり逢ひて」と詠んだなら、一字決まりのごとく私はその札に咄嗟に飛びつくだろう。
もちろん同じ郷に生まれた後輩との別れは惜しい。ただ、その寂しさとは異なる胸の内に潜ませていた悲壮感が、我々の共通認識として、同じ郷でも、たどり着いた街でも確かにその空間に存在していた。今回は、その空間で感じ、発生していただろう互いの家での「父親役割」について記していきたいと思う。
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私の母は、私が物心つく頃にはヒステリックな人だった。算数の問題ができないならばバシッと叩かれ、「この出来損ないがー」と罵倒される。バライティー番組やドラマを視聴しようもんなら、こんなものは下らないと、コードごとテレビの電源を抜かれてしまう。
娯楽といった類いのものは全て排除され、自分の想う通りの教育をする。それが母の信念だった。そんなヒステリックな声は聞いてる方も体力を消耗するようで、父はよく「もういい加減にしろ」と、時々ヒートアップする母を止めていた。
ヒステリックな妻を持った夫の宿命なのかと、その都度本来の夫の役割としては存在しないものを感じていた。
同じ郷にはもう一軒、私と同様の家庭に育った子どもたちがいることを認知していた。ホストクラブでキャストとして出会った彼であった。彼の親友によると、彼の家ではゲームを禁じられ、遊びに行くと「勉強しろ」とドリルを出されたという。そんな彼らの苦労を、その親友はよく語っていた。
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それから数年、私はその彼と出会った。誰よりも似た環境で育ったであろう彼と再会したのは、漂流してたどりつく街と呼ばれる歌舞伎町だった。私は彼に、母親を含めた家族関係のことを尋ねた。
「親父とは、まだ連絡とっているよ」
同じ類いの母を持つと、その夫には同じ役割が発生することを察した。彼の父は、家庭の調整役となっていた。
「勉強のことは聞いていたけど、勉強のことだけが嫌だったの?それとも、全て」
「全てですよ。全て」
「本当意味分からないよね」
「意味分からないよね」
ギラギラと輝くホストクラブの室内は、非現実的でまるで夢の国のような空間だ。そんな場所で我々が話したのは、幼い頃の心の闇という現実的な会話だった。どんなに周囲のキャストが素敵な雰囲気を作っても、私たちから子ども時代の過去が消えることはない。
同時にこれは、子どもだけの問題ではない。裏には、時に暴れる人間を制御するパートナーの役割がある。可視化されていない現象を発見したのも、我々の中に確かに存在した共通点によるものだった。
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同じ郷に生まれ、類似した家庭に育った彼のことを、誰のことよりも気にかけていた。文武両道で容姿がよく、中学、高校と運動部の部長を務め、協調性もある彼が、なぜその周囲の者によって不幸にならなくてはいけないのか、深い関わりはなかったが、彼を不幸にしたその人の存在を確かに憎んでいた私がいた。
けれども想うばかりで、子どもの頃は何も手を差し伸べることはできなかった。もちろん何もしてあげられない今も無力だと思っている。けれども、同じような状況下に育った子ども達がこれ以上周囲の者によって不幸になることがないことを願い、私はここに筆を執った。
今後彼がこの世界を引退し、どのような道を辿って行くかは知る由もないが、どうか心穏やかに過ごしてもらいたいと想っている。今度こそ、彼が心から幸せを享受できる人生を歩むことを願って。