昔から、他人との距離感がよくわからない。
近づきたくないくせに、遠ざかることもできなかった。
自分から話しかけることはしたくなかったが、話しかけられるとそれはそれで鬱陶しい気持ちになった。

そうやって他人とある程度の距離をとり、壁一枚のバリアを張っていたからだろう。
別に誰とも仲良くなれなかった。
誰かと仲良くしたいと特別思っていたわけでもなかったが、学校生活においてことあるごとに自分一人が余るという状況は、幼いながらに孤独を感じて胸が締め付けられた。

常に一枚分何かを隔てて他人との距離を保っていられたならまだ良かったのだろうと思う。
あぁ、この人は大丈夫だと思った途端、わたしはそのバリアを破壊して相手のパーソナルスペースに土足で駆けていってしまうのであった。

小学校高学年頃から、”常に浮いている”という実感だけは強くあった。

◎          ◎ 

さて、そんなわたしにも、”親友”と呼べる友達がいる。なぜかわたしのことを”宇宙人”だと思っている(本気か嘘かわからない)のだが、上記を踏まえるとあの子の表現は満点だなと思うものである。
その親友は、同じ学校にきょうだいがいた。わたしも顔見知りで、たまに遊んでもらったりしていた。
きょうだいなので、ここではきょうちゃんとでも名付けておくことにする。

学校内ですれ違うことは幾度もあったのだが、あいさつはしたことがなかった。

部活動や委員会で関わりのある先輩にはきちんとあいさつをする、ということは叩きこまれたのだが、それ以外の人全員にまであいさつする必要はなかった。そしてわたしは、あろうことかきょうちゃんもそれ以外の人にカテゴライズしてしまっていたのだった。学校では全く関わりがなく、部活動も委員会も違っていたから。

でも、すれ違うたび気まずかった。だって、知っている人だから。仲良くしてくれている親友のきょうだいだったから。大切にしたい人の大切な人だから。

あいさつしないなんて、とんでもないことだ。その認識だけはあった。

◎          ◎ 

すれ違う時に「こんにちは」と言う。難しいことなんて何一つない。たったそれだけのことなのに、今まで全くしてこなかった引け目と、急にあいさつされたらどんな気持ちになるのだろうという緊張と、いろいろな感情でがんじがらめになって、気付いたはきょうちゃんが卒業するまで半年を切っていた。

悩んでいる暇はなかった。ギリギリまで追い詰められないと行動できないなんてあまりにも情けないけれど、こんなしょうもないことでくよくよ悩んで、わたしは何もしないままきょうちゃんが卒業してしまったら絶対に後悔するという確信があった。

だから意を決して言うことにしたのだ。あのたった文字を。
すれ違いざまにあいさつをする時、遠くにその人がいることを認識し、声の届く距離まで待つ時間があるが、そのたった数秒間の鼓動の速さと大きさで自分の声がかき消されるのではないかと思ったほどである。

◎          ◎ 

でも、ちゃんと言えた。
きっと顔も強張っていた。声も震えていたと思う。

でも、ちゃんと目を見て言えた。
きょうちゃんが少し驚いた顔をして、その後すぐ微笑んで返事をしてくれたあの瞬間のことは、今も鮮明に思い出せる。

もっと早くそうしておけばよかったとつくづく思った。
ただ、それ以降きょうちゃんとすれ違う時にはわたしから必ずあいさつをしたし、そのあいさつは必ず返ってきた。

たった半年間だけでも、きょうちゃんとあいさつしあう関係を築けて良かった。きょうちゃんはもう覚えていないくらい、些細な出来事だったかもしれないけれど。

他人との距離感が下手なりに頑張った話。
あいさつの思い出。