昔好きだった人は、トマトが好きだった。大好物をトマトと公言していて、メニューの中にトマトが入ったものがあれば必ずそれを頼むほどの徹底ぶり。
対照的にわたしの一番苦手な野菜はトマトだった。トマトソースもケチャップもむしろ好きなくらいなのに、生のトマトになるとどうにも食べられない。
皮の感じも、中のグニュっとした食感も、独特の香りも全部苦手で、小さい頃は給食に出るたびに憂鬱だった。厳しい先生が担任だと、食べ終わるまで解放してもらえなくて昼休みに小さなトマトを前にうじうじと葛藤していた。
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ある日、好きだった人がトマトの入ったハンバーガーを食べていた。彼の表情も相まってそれがとてもおいしそうに見えて、でもトマトが入っているしなぁ、なんて考えていた。結局、同じものを食べてみたい気持ちが勝った。
勇気を出して食べてみたハンバーガーの中のトマトはハンバーガーのソースも味方してくれたのか苦手だった香りをほとんど感じなかった。爽やかな青みがジューシーでこってりしたハンバーグの脂と合わさって、とてもおいしかった。
それから少しずつ生のトマトが入っている食べものも食べるようになり、今では居酒屋で冷やしトマトを頼むほどになった。
好きのパワーはすごい。10数年の苦手なんて軽々と飛び越えて新しい世界を見せてくれる。
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今好きな人はトマトが苦手だ。給食でトマトが出て憂鬱だったという話を前にしていた。給食のときに無理やり食べさせられた結果、体調が悪くなったこともあったらしい。わたしもほぼ同じような経験を何度かしてきたから、その話にはとても共感できた。
ただ、彼は今でもトマトは好き好んでは食べないし、ついでに他にも何種類かの野菜(たとえばきゅうりとかスイカとか)が苦手らしく、そんな話を聞くとかわいらしいと思う。
苦手な食べものは無いほうがかっこいいし、無いべきだし、苦手だとしても無理して食べるべきであるという価値観の中で育ってきた。最近までわたしもそう思っていたし、だからトマトが苦手でなくなったとき、なんだか偉いことをしたような気持ちにすらなった。でも今となっては、体調が悪くなるほど苦手なのに無理して食べる必要なんて今も昔も無いし、好き嫌いってかわいらしさにもなり得るなぁ、と思うのだ。これも惚れた弱みだろうか。
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好きのパワーはすごい。20数年の人生で身についた価値観なんて簡単にひっくり返してくる。
昔好きだった人のことも、今好きな人のことも、トマトを食べるたびに思い出している。ふたりとも現在進行形でわたしの思い出になっていっている。
いつかわたしがおばあちゃんになったとして、トマトを食べるときにまだふたりのことを思い出しているのだろうか。大抵の記憶は時間が経てば薄れるものだけれど、トマトを食べるときに思い出す昔好きだった人の表情はとても鮮明だ。
だから、50年後でも、ふとした拍子に思い出しているかもしれない。だって、好きのパワーはすごいから。