「お前の3年間になんの価値もねえ」
あれから5年以上経ったが、この言葉が父親との関係に大きく溝をつくっている。
父親とは昔からそりが合わなかった。何がと言われても明確に言葉にすることはできないが、公務員の型にはまった堅苦しさが、昭和の亭主関白が、自分の普通を押し付けてくるところが、嫌いだった。
小さい時には父親に怒られ、布団に投げられたこともあったし、帰りが遅いと玄関の鍵を閉められることもあった。わたしにとって父親は嫌いな存在であり、同時に恐れる存在であった。
中学に入ってから会話は必要最低限。顔を合わせると何を言われるかわからないとヒリヒリするので、顔を合わせないように部屋に篭ったり、時間をずらしたりもしていた。ほとんど話すことはなかった。
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そして父親との関係性の中で大きなきっかけとなったのは、高校受験。わたしは公立受験に失敗し、滑り止めで受けていた私立の高校へ入学しなければならなかった。
不合格とわかった日の夜、父親に詰められた。「お前高校どうすんだ?」「お金出すのは俺なんだろ?」と。大人になった今ならなんでこの人はこんな言い方しかできないのだろうと思えるが、当時のわたしは父親が怖かったので何も言えなかった。
結局、「価値のある高校生活を送る。卒業後そう思えなかったら大学の学費は出さない」という終着点に落ち着き、高校に進学した。
高校入学後は、受験失敗の悔しさをバネにすごく勉強した。通っていた高校はコース制で、わたしは上から2番目のコースにいた。試験や模試で結果を残していたので、2年生になる際に1番上のコースに上がることができた。部活は吹奏楽部に属し、部長にもなった。
朝は早く行き誰もいない教室で勉強、部活後は夜遅くまで学校の自習室で勉強。文武両道、自画自賛するわけではないが必死に努力し、結果を残していた。
そして、大学受験では、世間的に学歴の高い良い大学に合格することができた。卒業式では、在学中に優秀な成績をおさめたひとりが受賞することのできる賞をいただくことができた。
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「お前の3年間になんの価値もねえ」
高校を卒業し、新生活に心躍らせ、大学入学に向けて準備していたある日のことだった。
「お前の高校生活に価値がないと思ったら大学の学費は出さないって言ったよな?俺は出さないからな。自分でなんとかしろ」と。
大学進学にあたり父親には一切志望校なども相談せず、母親による事後報告だったので、それが気に入らなかったのだろうか。それはわたしも悪かったと思っている。だがそれとこれとは話が別だ。
悔しかった。自分では精一杯がむしゃらに努力し、結果も残したつもりだった。
この人は何も見ていない、わたしの頑張りがこの人に伝わることは一生ないのだと悟った。どうして人のことを深く傷つけるような言葉を、そんな簡単に言えてしまうのだろう。
本当に嫌で嫌で仕方なかったが、なんとか話し合い、お金を出してもらえることになり、大学に進学することができた。
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父親と離れたくて、家にいたくなくて、大学在学中は日本全国を歩き回った。そして就職で家を出て、県外に越してきた。
家を出て2年目。父親との関係はなんら変わっていない。昔は父親が怖かったが、今ではわたしも大人になった。妹たちから父親の話をたまに聞くのだが、昔と変わらずそういう態度しか取ることができない人なのだな、それでしか自分の立場を守れないのだろうかと、なんだか悲しく思えてくる。
そしてたまに祖母の名前で仕送りが送られてくる。母に聞くと、それ送ったの多分父親だよと。きっと心配はしてくれているのだろう。想ってはくれているのだろう。
でも雪解けは程遠い。相変わらず関係はこじれている。きっとわたしはまだ、父親を許すことはできないだろう