口に入れると自然と笑みがこぼれてくる
塩や脂をつけた手が止まらない幸せ

誰かと食べても、1人でいても、そこにあると幸せを与えてくれる一品だが、私にとって特別なフライドポテトがある。私が最も尊敬する人物とサシ飲みをしたときの、忘れられない味だ。
私の人生の決断に居合わせた、「地元の居酒屋で食べたフライドポテト」の話である。

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現在から遡ること5年。大学4年生のお盆休みのこと。
周りの同級生は就職活動を終えたり、大学院進学に向けて準備したりしていた。

東京の大学に通っていた私は、9月に行われる地元の教員採用試験の二次試験向け、コロナ禍だったこともあり早めに帰省していた。
帰省して真っ先に連絡したのが、中1から6年間通った学習塾の先生だ。70才近くになるが、1人で経営し現役で指導しているだけあってパワーがみなぎっている。目元に深く刻まれた隈が、彼の年齢と長年の努力を物語っている。

私は彼の深い知識と授業の面白さにき込まれ、塾に青春を彩られた。
高望みした第1志望校には届かなかったが、第2志望校に導いてくれた彼に感謝し、高い指導力と深い人間性を尊敬していた。

私は帰省する度に彼に連絡し、食事に誘ってもらった。普段は手が届かないような高級レストランでの食事は、同世代の男子とのデートにも劣らず心躍るものであった。
今回は大学最後の年で、また試験を控えたタイミングということもあってか、彼は初めて「酒飲むか」と言った。

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持っている中で一番大人っぽく見える紺色のワンピースを身に着けて向かった居酒屋の個室に入ると、いつものようにスーツを着た彼が座っていた。いつもは絶対に飲まないビールを、1杯目に頼んだ。

「好きなものを頼め」と言われつつも、高齢の大人は何を好むのか、とメニュー表を睨んでいると、彼は「フライドポテト頼まないか?」と提案した。
「若い子ポテト好きなんじゃないか?俺もたまに食べたくなるんだよ」

ほかに刺身の盛り合わせやステーキ、馬刺しも頼んだが、真っ先にフライドポテトの大皿が運ばれてきた。塩だけが振られた、三日月型のタイプのポテト。脇にケチャップとマヨネーズが添えてある。

早速手を伸ばそうとして、慌てて箸を割る。外はカリッと焦げ目がついて、中はホクホクだ。塩気がちょうど良くて、味変もできて楽しい。
ポテトを箸で丁寧に食べ、1杯目を飲み干すころには、何年間も尊敬してきた対象と夜に2人きりになる状況に対する緊張がほぐれた。

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大学で学んでいる文学の話や、同じ塾に通った同級生の近況を共有するうちに、彼の顔がだんだん紅潮してきた。
(そろそろ、あの話題をしないと…)今日はどうしても伝えたい話があった。
だって、教師は第2志望の職業だったから…
彼がここ数年、常々悩んでいたことが『後継者問題』であった。そう遠くない将来死にゆく彼にとって、並大抵でない努力によって築き上げた塾の名が自らの死によって消滅するのを惜しんでいた。しかし、何代にも渡る教え子の中で、小規模ながらも名高い個人経営塾の後継者として自ら名乗りを上げる者はいないようだった。

私は飲み慣れたレモンサワーをゴクリと飲み干し、話題を切り出す。

「先生。この塾は将来無くなるんですか?」
「今のところはね。何人か目ぼしい人はいるけど」
「私ではだめですか?継ぎたいんです」

彼は目を丸くして、ビールを置いた。

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「ずっと大好きだったこの塾を、私が守りたい。大変なのはわかってるつもり。それでも頑張りたいんです」

彼は一瞬嬉しそうな顔をしたように見えた。

「俺はあなたにずっと教えてきて、人間性も知ってるつもりだ。あなたにそういう意思がある限り、うまくいく可能性が十分にある。それくらい、有望だよ」

しかし鼓動が弾んだのも束の間、その後の言葉が予想外のものだった。

「ただ、あなたは女性。それだけが問題だ」

「えっ?」

「今は考えていないかもしれないけど、これから先好きな人と結婚して、子供を産むだろう。そうなったら、塾どころではない。夜が中心の仕事だからな」

何も答えられなかった。
私が溜めていた意思を受け止めてくれた嬉しさと、悔しさが入り混じって自分でも分からない感情を味わった。

「それにしても、随分と綺麗になったな」

そう言って彼は更にもう1杯、ビールを注文した。
(あの話題はもうやめにしよう)
私は残った数本のポテトを素手で掴んで空にした。
(冷めちゃった。でもおいしい……)

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それから先は、いつも通りの会話で盛り上がったのを覚えている。日付が変わるあたりに、タクシーが私の家の前に止まった。

「採用試験の合格発表の日、また連絡してな」

そう言って彼は塾の方向へ消えた。
翌日、お礼の電話をすると、彼は「俺後半酔っ払っていてあまり覚えていないんだよ。無事帰ったか?」と電話口で笑っていた。

採用試験に合格できたものの、私は夢を諦めきれず1年経った春に退職した。
教師は素敵な職業だった。

そして、彼が紹介してくれた個別指導塾の会社に就職して今年で3年目になる。そこには彼の後継者候補の1人が勤めているから、と紹介された。一回り年上の男性だった。まずはこの先生に追いつくことが今の目標だ。
道のりは遠いけど、確実に第1志望に近づけている……。
もしあの塾は無理でも、いつか必ず自らが女性経営者となって進学塾を作るんだ。そんなことを夢見て、今日もファストフード店で赤本を睨んでいる。勉強するときは、ブラックコーヒーとフライドポテトという不思議な組み合わせが好みだ。やっぱりポテトは熱々が美味しい。
でも、あの夜の味を超えることはないだろう。