「くーださい!」
だれがその挨拶を決めたのか、いつからみんな言っているのか、そんなことは当時幼稚園生だった私にわかるはずもなく、「必ず挨拶してからお店に入りなさい」という祖母からの言いつけが自然と身についていた。
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うちの実家のすぐ目の前にある駄菓子屋、通称「みせや」。正式な名前が別にあると知ったのは小学生のころ。同級生が自慢げに話していたのを今でも覚えている。
でも、正式な名前なんて私にはどうでもよくて、私は店主である「みせやのばあちゃん」が本当に大好きで、そしてみせやに置いてある駄菓子も好きで、生まれたころから可愛がってもらていたということに、同級生に対して優越感なんかも感じたりして。家族ぐるみで親交があった私たちは、ご近所さん同士和やかに毎日を過ごしていた。
みせやに入るときは必ず「ください」と言うこと、みせやのばあちゃんがでてきたら顔を見て挨拶すること、足が不自由なみせやのばあちゃんに代わって、なにかあったら手伝いをすること。それが私が自分の祖母から言われたことだった。いつ行っても笑顔で迎えてくれるみせやのばあちゃん。
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「おぉ、来たならちょっと上がってお茶でも飲んでけ。美味しいお菓子もらったんだ」。
そう言って、よく私を居間に通してくれた。年齢差60歳以上の私たち。しかし意外にも話題は毎回尽きなかった。学校のこと、お客さんのこと、うちの祖母のこと、ちゃっかりお茶をおかわりしながら何時間も話していた。いつの間にか夕飯時になっていることもしばしば。そこでうちの祖母からみせやに電話が入ることも定番だった。
「うちの孫がまた遊びに行ってお邪魔していないか」とよく祖母に心配されたものだ。日中はうちの祖母が、学校が終われば孫の私がみせやを行き来していた。もちろん、祖母と私二人そろって行くことも週に何度かあり、行くたびにお茶を飲んでは会話を楽しんでいた。
そんな平和な毎日が続いたのは、私が高校3年生になった時まで。私の祖母が癌で他界したのだ。誰にも心配をかけたくないと、余命宣告されてからの半年間、仲の良かったご近所さんたちには一切何も言わずに闘病生活を続けていた。みんなが現実を目の当たりにしたのは、祖母が癌で他界したと私の父から連絡をした時のことだ。もちろんその中にはみせやのばあちゃんも含まれており、高齢だったみせやのばあちゃんは現実を受け止めきれない様子だった。
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「死んだなんて、まだ信じられないんだよ。おまえのばあちゃんが最後にここに来たのはもう何カ月も前のことだけど、電話で時々話はしてたし、そのうちまた『ください!』って店に顔をだしてくれるんじゃないかって思うんだよ。またここで一緒にお茶を飲んで話がしたかったよ」
祖母の葬儀が終わった数日後、みせやのばあちゃんに呼ばれ、居間で2人でお茶をしながら祖母との思い出に浸った。私以上に私の祖母と長い付き合いだったみせやのばあちゃんは、ついこの前のことかのようにいろいろな出来事を覚えていた。祖母に手を引かれ、元気よく「くーださい!」と挨拶をして店に入ってきた幼い私のことも、はっきりと覚えていた。
専門学校進学と同時に私は実家をでることになり、みせやのばあちゃんにも元気で生活することを約束して地元を離れた。帰省するたびにみせやに顔をだし、新生活のことをたくさん話した。私の話を嬉しそうに聞くみせやのばあちゃんは、私が地元にいたころよりもだいぶ小さくなったように見えた。それでも笑顔で迎えてくれるばあちゃんが、私は昔と変わらず大好きだった。
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時は流れ、私も成人し、社会人になった。みせやのばあちゃんに成人式の振り袖姿も披露し、これから先もずっと元気でいてほしいと思った。みせやはもうだいぶ前にシャッターを閉め、親戚の家に移り住んだと知ったのは、成人式からしばらく経ってのことだった。
一人で生活するには困難なため、仕方のないことだと。どんな思いでみせやを離れたのか、今となっては知ることはできない。また「ください!」と元気に言ってみせやに入りたかった。最後の挨拶もできず、ただ寂しさだけが今でも私の中を駆け巡る。