学校に行って学んだことよりも、ネットや本、ストリート、自然から学んだことの方が今になって身になっているような気がしている。というと聞こえはいいかもしれない。敷かれたレールの上を歩きたい気持ちは山々だったけれど、なんだかんだ砂利道を裸足で歩いていたみたいだ。足の裏には、砂がまばらについている。

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特筆すべき学歴はない。資格は今のところ漢検二級、通信教育で取得した民間の美容資格が三つ、骨格診断アドバイザー二級。職歴もアルバイトを転々としただけで、未来を保するような社会的な“履歴”はなんにもない。

逃げ足が早く、自分が興味のある狭いことにしか熱を注げずに飽きっぽい上にプライドが鬼高いため、他者とまともな関係を築けずに苦労してきた。

インターネットは、そういう対人不適応症の人にうってつけのツールだと思う。むしろ、そういう人の巣窟なのだろう。

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思い返せば、小学生の頃からネットを駆使して自分の感情や、身の回りに起こるナゾを探してきた。

「男の子 声 変わる なぜ」「テレビ 写真 アフロ 意味」「癒される犬の画像」などのワードで検索して、その時に沸き起こる解決の衝動を発散した。

中学生になると、SNS上で好きなアイドルのファンコミュニティに入ってライブ会場で待ち合わせして会ったり手紙を交換したりと、長続きしないその場限りのコミュニケーションだけは得意な私はそういう活動を楽しんだ。私は、それを勝手に瞬間的友情と呼んでいる。

だから、偏った雑学・知識や「どこでそんなの覚えたんだ?」というような昭和のマイナー曲や大正のファッション用語、SNS/ネット用語は頭に入っているのに、今外の世界で起きていることや日本の一般常識とされることはあまり知らない。いい年して礼儀作法もあまり分からず、頭でっかち甚だしい。

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回転の速い大量消費のこの世界で何を学ぶかどこで誰と過ごすか、何を目指すかはそれぞれの自由だ。人生はとかく打ち上げ花火のように短い。
私は今後、もっと日本語を学んでいきたいと思っている。名だたる文豪の織り成した文学表現を自分の中に落とし込み情緒を深め、いずれ自分の小説にも美しい言葉を用いて、見える世界を表現したい。私に見える世界は、とてもクレイジーだ。だからこそ、そこには美しさのフレーバーが必要なのだ。

「どんな経験も決して無駄にはならない」という言葉はよく聞くところだけれど、確かにそう思う。
宗教を信仰する家庭に生まれたことも、いじめられたことも、愛犬が死んだことも、通信制高校に行ったことも、精神科に入院したことも、ネット中毒で青春を過ごしたことも、歯の矯正も整形もダイエットも、全部全部序章に過ぎなかったのだろう。

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学校や塾などの教育機関だけが学びの場所じゃない。今苦しんでいる人にはそう伝えたい。感性を磨け、物質に驚け、自分に慄け。学びはそこら辺に無数にある。負け犬の遠吠えだと笑われてもいい。それがおもしろ可笑しく、一時の慰みになるのなら。

自分には何もないと思うからこそ、私はこの身が果てるまで色んな形で学んでいきたい。興味の赴くままに、能動的に生きようと思う。腰の折れ曲がったお婆さんになっても、新しいものに臆せずにネット検索して入れ歯をパカパカいわせながら笑っていたいものだ。