私はこの文章を、大学院の自習室で書いている。
今思えば、小学校から今の今まで、私の大半を勉強というものが占めていたと思う。

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小学校の時は、よくわからないまま塾に向かい、そうして受かった中学に入ったら、定期テストのために塾に通い、高校生になると、大学受験に向けて机と向き合った。

れから大学4年間、そして今も、国家資格取得を目指して勉強している。

こういうことを言うと、勉強できてすごいなあ、と言われることがある。
このすごいなあ、は別に頭がいい、と言うわけではなくて、机にそんなに向かえてすごいな、量的に、と言うわけだ。

まあ、確かに、勉強が嫌いなわけではない。
したくない、遊びたい、そう思う日もあるが、やったらやったで楽しいものだ。
バリバリの文系で、化学だけはどうしてもできなかったけど、数学も生物も好きだった。

ただ、どうもこの世には勉強を嫌いとする人が多い。
それは、必要のないこと、意味のないことに向き合わないといけないという義務感が嫌なのだろうか。

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しかしだ。

人生のほとんど参考書や問題集と走り抜けてきた私からすると、勉強というのはめちゃくちゃ人生に有用であると声を大にして言いたい。
勉強は、私たちの人生に奥行きをもたらしてくれる。

例えば、英語は一番分かりやすいかもしれない。
習った単語を、海外で実際につかえると嬉しい。それだけじゃなくて、例えば、公衆トイレ、例えば駅、例えば歩いている人のTシャツ。
普通に生活していれば通り過ぎてしまうけど、英語が少し読めると、クスッと笑えることが増える。トイレで暇な時間どうするかというと、外国人向けのトイレの使い方を読んで、そこも説明するんだ…と関心する。

歴史もわかりやすい。
歴史上の登場人物や地名を知っていると、漫画やドラマ、映画なんかでそれが登場した時に、そこに描かれない背景に想いを巡らせることができる。ああ、この人はこんなに格好良い風に描かれているけど、実は老後豹変して大戦争を引き起こすんだよな…。

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例えば数学。
これは私がすごく、すごく実感していることだが、数学的思考というのは人生において本当に役に立つ。
公式があって、そこに数字を当てはめて、解を導く。
これって、人の論理過程によく似てる。
正しい規範があって、そこの具体的な事実を当てはめて、主張を述べる。
いわゆる三段論法というやつだが、論理が破綻している人は、このどこかがぶっ飛んでいる。
三平方の定理を忘れても、台形の面積の求め方を忘れても、それらを使ってうんうん唸っていたあの時間は、絶対に無駄ではない。
X(旧Twitter)でバズってるこの投稿、なんか変じゃない?斜めでない目線で物事を見ることがどれほど難しいか。

勉強の意味なんて、やった後でしか実感できないことばかりだ。
けれど、私がこうして勉強と気楽に付き合い続けていけてるのは、彼らがもたらしてくれるこれからの意味に気づいていくのが楽しみだからかもしれない。

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私は今大学院で法律を学んでいる。
難しいし、辞めたくなるようなことばかりだけど、弁護士のドラマを見ていると、犯人が誰かなんてものよりも、その人が何の罪に問われるのか、この人の自白って証拠になるの?とかがまず気になる。
学ぶってそういうことだと思う。一つのものを見て、額面通り受け取るんじゃなくて、違った目線からものを見れるようになる。

それが楽しい。だから私は勉強を続ける。
学びのススメ。