男性が苦手だ。いかにも男性の振る舞いをするひと、と言えばいいだろうか。

舌打ち、咳払い、頭をかきむしる、そう言ったことをたとえすれ違っただけの人でもしていると嫌で嫌で仕方がない。その人が自分に対してやっているように感じるからだ。男性上司が隣の席で働いていたときが一番つらかったことを覚えている。

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父親から負った数多のトラウマがいまだにわたしを苦しめる。

舌打ちも咳払いも新聞を読みながらの無意味な発音も、頭をかきむしるのも、ぜんぶ父親に結びつく前に嫌悪感で頭がいっぱいになってしまう。

母親からわたしに対して謝れと言われた父親がわたしに布団の中で抱きついてきたことがある。14歳くらいのことだろうか。ただただ気持ち悪かった。言葉で謝罪をされたことは一度もない。
殴る蹴るは幼い頃から慣れっこだったし、足首を掴まれて逆さ吊りにされたこともある。なぜか暴力はわたしにしか向かず、きょうだいや母親を殴ることはなかった。

一番多かった、というか自分の不安がりな、社会不安障害ぎみの性格の原因になったのは膝詰めの説教だと思う。小学校1年から高校3年までだとしても10年近かった。

よくあることだが、説教をしているうちにどんどん論点がずれていき、もはや何で怒られているのかわからなくなったところでわたしが過呼吸気味に泣き出して逃げ、そのあと父親が母親と諍いをしている声が響く家で掛け布団と敷き布団の間に頭を突っ込んで泣き叫びながら耐えていた。

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そんなわたしは中学校に上がってから若干、非行気味になった。しかし、私服がださく小遣いもなく家で殴られるか怒鳴られるかでずっと親の顔色を疑っている子どもがいじめられないわけもなく、いま思えば精神科にも行かずよくその程度ですんだな、と思っている。家にいたくないという理由で学校を休むことはなかったが、スクールカウンセラーとしか話せないような3年間を過ごして、高校に進む時にもまた一揉めあった。

当たり前のように公立に進むように言われていたが、その志望先を変えろと言われ(理由はとてもこんなところには書けないことだった)、しかしわたしの苦手教科や難易度を考えれば他に選択肢はなかった。結局、最初から決めていたところを志望することになり、いったい何のために揉めたのか、中学生なりに不可解だった。

高校生になると流石に暴力は減ったが説教は相変わらずで、母親の干渉も激しくなった家に帰りたくないあまり部活を掛け持ちして最大限に帰宅を延ばしていた。
最後に殴られたのは高2か高3のとき。顔を足で蹴られ白目が真っ赤になった。母から数日後、ぶつけたと言いなさいと言われて眼科に行ったがいまさら何もできないのはわかりきっていた。

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高2の頃からか、APD(聴覚情報処理障害)がどんどんひどくなったがあれは家庭のストレスのせいもあったと思う。両親の喧嘩や諍いなどがおさまることはなかったし、説教や干渉も父親8割母親2割と言った具合だった。
そこそこの進学校だったので部活に入らず受験勉強に専念するクラスメイトも何人もいる中で、部活も2年の夏まで辞められず、部内でも大会に向けて本気になる人とほどほどにして勉強したい人で剣呑な空気が漂っていた。

大学進学も言うことが二転三転する父親と母親、18歳で死ぬという希死念慮の塊になっていたわたしでまったく話は噛み合わず、AO入試など、もう少しやりようのある受験を最後の最後まで引き伸ばした結果はことごとく不合格になり、志望ではないところへ進学することになった。

浪人したいと言ったが許されなかった。のちのちきょうだいは浪人することになったが、その頃には自分ときょうだいの格差を受容していたのでもはやなにも思わなくなっていた。

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最近、今書いたことをかいつまんで友人に話したら「それはひどいね」と絶句され、そんなに酷いことだったのか、と10年以上経って思った。

こんなに暴力を受けて育ったのにとくに何にも依存せず、たまには家事もして時々は働いているのはすごいな、と思う時と、なんでこんなに働けないんだろう、メンタルさえ壊していなければ、親のせいだな、と思う時がある。
どちらかというと後者を感じる時の方が多くて、体力のなさや精神的に弱くなりやすいことが嫌なのか、治しようがないから悔しいのか、まだそこに対しては整理がつかない。