「でこっぱち」とからかわれるほど広い額がコンプレックスだった。

小学生の頃は前髪を横分けにして垂らし、中学生になると目の上ぎりぎりでカットするヘアスタイルを選んだ。私のおでこはいつも念入りに隠され、太陽に晒されないままになった。風に吹かれてあらわになるのも、水泳帽の中に髪をしまうことにも抵抗があった。

デカい顔を丸出しにするのが恥ずかしくて、ニキビができても頑として、垂らした前髪をピンで留めようとは思わなかった。自分の嫌いな点を数えるのが習慣のようになり、みっともない容貌が嫌で嫌で仕方なかった。

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自分を見られたくないあまり、人と目を合わせない癖がついた。大人になってもその傾向は治らなかったが、結婚と出産を経ていくらか落ち着いていき、親しいママ友もできた。
娘がまだ幼い頃、容姿のコンプレックスを苦々しく愚痴る私に、ママ友がきっぱりと言い放った。

「あなたのコンプレックスは自尊心の裏返し。自分に自信がありすぎるから周囲の評価が不満なのよ」

目からウロコの視点だった。そんなつもりは全くないと、反発したい気持ちも少なからずあったが、ぐうの音も出なかった。無意識の自尊心と、隠しておきたかった自意識過剰と自己顕示欲。それらをズバリと指摘されて猛烈に恥ずかしくなった。核心を突いた的確な発言の前に、こうべを垂れて納得するしかなかった。

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以来、私は自分を卑下することを止めた。コンプレックスのアピールは、傲慢で過剰な自己愛を露呈するだけと、35年前に悟った。苦く痛烈な教訓だった。

もともと、ドラマやアニメに登場する綺麗なママに憧れていた私は、結婚して子供を授かったら「自慢の母」になろうと決心していた。思惑通り若くして出産した時は、理想の母の条件を1つクリアしたような「勝ち組」気分にどっぷり。

娘が小中学生へと進むにつれて「○○ちゃんのママ、美人だね」「お姉さんみたい」「チョー若い」と耳に届く美辞麗句で優越感は膨らむ一方。ファッションにも俄然気合いが入り、PTAに出席する際の装いは、周到に計算してキメていた。

娘が高校生の時のこと。その日も気張ってミニスカートにレッグウォーマーのいでたちで学校を訪れたところ、娘に開口一番「なんでそんなカッコしてくるの!」と一喝されて絶句。喜んで貰えると浮かれていただけに大ショックだった。

娘に当時のことを話すと「そんなこと言った?子供って残酷ね」と、まるで他人事。娘は母の容姿になど端から関心が無かったようだ。されど然るに女という生きもの、いくつになっても外見にこだわり続ける見栄っ張りには違いないだろう。

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そんな私の元気の源は、鏡の前での「1人ファッションショー」だ。手持ちの服や新品をあれこれチョイスしながら、TPOに合わせた装いを熟考するのが至福の充電時間。とっかえひっかえ試着するうちに意外な組み合わせを発見したり、新しい着こなしが浮かんだりして、気分は専属スタイリストというわけだ。

傍目には自惚れも甚だしいアラ還女の悪あがきで、ドン引きされるシチュエーションだと思う。だが、それを重々承知で、あえて断言したい。

「究極のナルシシズムこそ最強の発奮剤となり、生きる原動力になり得るのだ!」

60代の今だからこそ「見た目年齢」に意義があると強弁したい。コンプレックスをナルシシズムに転換・昇華できたのは、ママ友の金言のおかげだと今更ながら思う。

女性の美に対する執着は根強く、根深く、一生捨てきれない性(さが)のようなものだろう。無論おしゃれへのこだわりは「自分本位で自己中心的」がモットー。一途な「ゴーイング(強引-goo)・マイ・ウエイ」は、今もって些かも揺るがない。