私が通った高校は女子高だった。
1学年3クラスあるが、そのうち理系に進む人は、1クラス分もいないくらい。

理系志望者が集まる1クラスは、なんとなく医学部に進む人、理工学部に進む人などが集まり、授業の合間の休憩時間もひたすら数学の問題集を解いていたりする、大人しくて真面目な空気だった。

私のクラスは、文系で語学や国際系の志望者が多かったのもあり、授業の合間の休み時間は、皆でわいわい最近あった雑談をしている、愉快な人が多かった。

教室の扉を開けた瞬間、理系クラスと文系クラスでは雰囲気が違う。
からしても、明るくてまっすぐで行動派な私は、やっぱり文系だったんだと思う。

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私のいた高校は、1学年3クラスの小さな女子校だったが、そのうち3割弱の人は、実は医学部に進む。

理系志望者=医学部志望者というような感じだった。
そして、窓際の席で大人しく数学の問題集を解いている医学部志望の女子たちは、皆、顔立ちもはっきりしている見た目も美人で、頭脳明晰で、落ち着いてて大人しくて、当時の私からすると、「勝ち組」で異世界の人たちだった。

社会人になった今、1人の人間として、皆それぞれ色々な分野や場所で活躍している。

でも、やはり高校の同級生の中でも医学部に進んだ女子たちを見ると、やはり当時と変わらず容姿端麗で華奢で美人な医師として活躍している。

高校を卒業して10年後———。
同窓会やSNSで、久々に医師になった同級生たちを見ては、当時と変わらず、「勝ち組だな」と素直な感想を抱いた。

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それでも私は、いま高校生に戻って自分の進路をやり直したい思ったり、美人で医師になった同級生たちを見て、悔しさやうらやましさを感じたりするわけではない。

これまでだったら、内心、引け目や悔しさを感じていた葛藤していたかもしれない。

文系に進んだ私は私で、大学受験は志望の大学に行けなかったが、社会人生活のスタートで、ようやく努力が花開き復活劇を遂げた。

帰国子女でも海外大学進学者でも何者でもなかったが、独学で英語を勉強して、社内公用語の英語を使って、欧米系の外国人たちと、都内のオフィスで仕事をしてきた。
そんな、語学が堪能で、日本人プレイヤーとして欧米人の同僚と一緒になって仕事をし、自己実現してきたという自負が、20代後半になって生まれてきた。

どんな進路をとっても、自己実現や本当の意味での個人の挑戦ができ、永年の願いが実現できたら、人は「自分らしさ」を手に入れられるものなのだと思った。

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どんな容姿やスペック、性格だろうと、本当は人はそこにあるだけで「その人」であるはずのだが、どうやら、自己実現できた時に、「自分らしい人生」や「自分らしさ」を実感し肯定できるもののようだ。

そういう意味で、個人の理想や願望や努力も、それが報われる経験や認めてくれる周りの人たちも含めて、「その人らしさ」を形づくる、人生の大切なパーツなのだと思う。

その起点が、「周りがそうだから」というものでなく、「自分がこう思うから」という個人の想いや発露から来るものであるほど、自分らしさを感じられるものなのかもしれない。

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今の私は、確実に言える。

「あの時、心に従って、文系(語学方面)を選んでよかった」