人は生きていくなかで誰もが、全力で取り組まねばならない時がある。例えば、人生を左右する入試や体力テストなど大小あれど小さな壁を努力し乗り越えていくだろう。

私には〝全力はダサい〟と思っていた時期があった。試験勉強はコソコソやっていたし、体力テストは余力を残しつつ、Aが取れるよう調節して取り組んでいた。勉強も運動も、いつも中途半端だった私の考え方を変えたきっかけを皆さんに伝えたいと思う。

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昔から運動は得意だったが、好きではなかった。どれだけ汗をかいて必死になっても、結果が伴わない時がある事を幼いながらに知っていたからだ。

人は完璧な人間を嫌い、努力を笑う。他者が己より秀でている事を認めて、賞賛できる者はほんのひと握りである。常に何事も勉強中であった我々〝学生〟は精神も未熟な者が多かった。

今思えば、自分が好きではないと感じていたのは運動そのものより、「走っている時の顔が笑える」だとか、「走り方が変」などの人の努力を否定する言葉だったと思う。

どの学校も小・中・高と陸上競技大会や運動会リレーはあるだろう。我が校は、足の速い者を先生が選ぶ仕組みだった。私は、体力テストの種目である50m走で点数を稼ぐ為にそこそこのタイムを収めていた。「汗かくし、ダサいからやりたくない」なんて先生に物申すことも出来ず、高校までリレー選手として選ばれ走り続けた。

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そんな私にも、好きな男の子がいた。彼は頭も良く運動もできる所謂「文武両道」な人だ。彼は誰よりも努力家で、馬鹿にされても笑って流し決して努力をやめない人だった。彼もリレー選手だった。「やるなら全力で、1位になりたい」そういって、メンバーとよく練習をしていた。

そんな姿を見て自分が恥ずかしくなった。そして、あんなに頑張る人の努力を自分の不真面目さで台無しにしてしまうのではないかと怖くなった。少しでも追いつきたくて、でも人に努力を見られたくないからとモヤモヤした気持ちのまま、暗くなってから自宅から池まで走る練習を始めた。

私は、リレーの練習には参加していた。しかし、本当はもっと速く走れるのに見た目を気にして全力を出さないでいたからだ。いつの間にか私は、本気で勝ちたいと思い努力をしていた。

陸上競技大会でのリレーの当日、私は沢山の人の目に晒され緊張でガチガチだった。そんな私に彼は「大丈夫だから」と声をかけてくれた。「大丈夫?」ではなく「大丈夫だから」と言われ違和感を感じたが、努力家な彼からの言葉は私のらしくない努力を認めてくれた気がして、安心から緊張が和らいだ。

結局、あんなに頑張ったリレーも自己ベストを出したが結果は惜敗。人生で初めて本気で取り組み、負ける事の悔しさよ。そして、努力もいいもんだなという振り切れた清々しさ。「みんな、ありがとね」メンバーと泣きながら笑う。太陽がジリジリと肌を焼き、あんなに嫌だった汗がこめかみを伝う。かっこ悪い走りもダサい姿も気にならなかった。

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以前の私のようにダサいと笑う人もいただろう。努力しても形にならない何にも繋がらないのに無駄だと思う人もいただろう。しかし、頑張らないより全力で頑張るのは気持ちが良かった。私にとってあの時間は何よりも輝いていた。

だって、ぽたりぽたりとグラウンドに落ちた雫は、必死に努力をしてダサい自分に勝てたという努力の跡なのだから。