数ヶ月前まで高校生活を送っていた私は周りに置いて行かれぬよう必死だった。

それでも置いて行かれているような気分だった。上手くやっているように見せているだけかもしれないが、卒業後に進んだ場所で上手くやっている同級生をSNSで見てしまうと今でも置いて行かれていると感じることがある。

人それぞれ違うペースを比べる必要はないのかもしれない。けれど、周りの人たちは順調に進めている中私はその場に佇んでいるような、むしろ後退しているような気持ちだ。

それで自分を責めてしまうのも日常茶飯事。自分が3ミリ新しい私になれたつもりでも、他人からするとそれが1ミリだったり2ミリだったり。逆に4ミリ5ミリと自分が思っている以上に進めているように見えたりと難しい部分がある。このテーマを考えていた時そんなことに気づいてしまった。
自己肯定感が低いどころかほぼ無い私は「周りになんと思われようと前に進めているじゃないか」そんなことが思えない。でも、自分でそう思うことが難しい人はきっと私だけではないはず。

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そんな私でも3ミリ新しい私になれる時がある。自分に合った言い方に変換すると3ミリ新しい私に気づける時がある。
それは曲を聴いている時だ。
高校生の頃までは先生たちの言葉で気づくこともあった。でも卒業して先生たちの言葉を聞くことが少なくなった今、それはできない。そんな自分を救ってくれたのが曲の歌詞だった。

うまくいかずに不安定になっている時は、自分に寄り添ってくれているような曲を聴いても歌詞に反抗したくなる。どれだけ「あなたは頑張っている」「必ずどこかに希望がある」などと歌ってくれていても自分は頑張れてない、今の自分に希望なんかない、と。

でもそんな歌詞を受け入れられた時初めて「自分は頑張れている」「自分の心が病み終わったらその先は楽かもしれない」そう思うことができる。そして同時に前に進めた自分に気づける。

嫌いではないのに私は人が苦手。それなのに前に進めているんだよと気づかせてくれるのはいつも人だった。その温もりも大切だとは思う。時にはそれが恋しくもなる。曲だって作詞、作曲している人がいて歌っている人がいる。そんな人たちの気持ちが歌詞には入っている。人が関わっていないわけではないけれど、私的には曲がいい距離感で居てくれている。だから先生たちの言葉を聞けなくなっても前に進めている自分に気づくことができたのだ。

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曲があっても周りと比べることは少なくならないし、むしろ多くなっている気がしている。でも少しだけ前に進めている自分曲が気づかせてくれる。次に自分が気づける曲はなんだろうと楽しみでもある。
私の場合新しい私に気づくには誰かの言葉にしても、曲にしても人の力が必要だ。

今までも新しい私に気づかなかったことはあると思うし、これからもそれは同じだと思う。それでも人の力を借りて気づかせてもらいながら自分のペースでこれからも新しい私になっていく。