右向け右。
呆然と立ち尽くしていた私がとった行動だ。
物理的に、自分の歩幅が正面から右にずれる。
立っている場所は変わらないにもかかわらず、見えるものがガラリと変わる。
正面に見えていた「やるべき」「やった方がいいと思っていたこと」が、右を向いた途端に、「それはやらなくていいよ」「やりたいことをやっていこうよ」と、意識が変わる。
◎ ◎
ないものばかりに目を向け、自分にないものを羨ましがり、欲しがる。欲しかったものを自分のものにするには、苦労や努力が必要だ。けれど、そこまでして本当にそれが欲しいのかと、改めて自分に問いただせば、そうではなさそうだったりする。
自分のことなのに、他人事のように曖昧なものにしていた。
欲しがれば欲しがるほどに、迷い、どんどん自分が見えなくなっていく。
迷い込んだ先が、暗いわけではないからまた厄介だった。やってできないことはないし、学びを通してそれは、きっとできるようにはなる。
ただ、果たしてそれは本当に自分が求めていたことなのか。やりたいことなのか。
「変わりたい」という前向きな想いがあるからこそ、明るい日差しが照らすその道が、迷路だとは気付けずにいた。
◎ ◎
そんなとき、もうあるのよ、あなたはもう持ってるんだよ、そんなメッセージを幾度となく受けとる機会があった。そうか、持ってたのかと腑におちるまで、その迷路から抜け出すまで、いったいどれだけ時間がかかっただろうか。
視点を変える。この動きはほんの些細なことだ。
だけど、心理的に大きな変化が伴って初めて変わるものなのだろう。右向け右をしたところで、見える景色は変わっても、心のなかで感じとる景色はなにも変わらないままだったのだ。
もうある。もうすでに持っている。
すでにある部分を伸ばしていけばいいのだから、「やるべき」「やった方がいい」と感じるものを伸ばすよりも、遥かに軽やかにできるような気がしている。もちろん、確実に自分のものにすることは、容易なわけではないけれど。
自分にあるものに目を向けたときに、見える景色が変わり、視点が変わった。
そして、心のなかで感じとる景色が一変し、これが私の持っていたものだと、これでいいんだと、納得できた。
◎ ◎
右向け右。
ただそれをしただけだ。
視線をちょっとずらしただけかもしれない。物理的な距離感はほとんど変わらないが、心理的な変化を伴う「右向け右」は大きな変化をもたらした。目の前に見えていた大きな山に向かっていこうとしていた私が、右に視線をずらして気付いた。右側にはもっと行きたい道があったのだと。
そして身体ごと向きを変える。ただそれだけで、目の前にあった山はなくなり、平坦でのどかな道がまっすぐと見える。散歩するにはもってこいの道を、ただまっすぐに歩めばいいのだ。
下手に何かに挑戦しようとするのではなくて、のどかな景色に癒され、好きな散歩でもしながら、その道中で興味が湧くものに向き合えばいい。
手に取ったものを大切に育てたり、紡いだりしていけばいいだけなのだ。
手に入らない、入れるには大変な苦労がいるものを、あえて取りにいこうとしていた私じゃなくなっていた。
◎ ◎
小さいときからこつこつと積み上げてきた「好きなこと」。
きっと誰にでもあると思う、その「好きなこと」に向き合い、改めて光をあてることで、さらに輝かせる。
すでに手の中にある、それをちょっとだけ磨いてあげればいいのだ。
私が生きてきた過程のなかで、それは少しずつ磨かれてきた。
ちょっとだけほこりを被っていて、くもって見えるかもしれない。だけど、あと少し研磨すれば完成する、その手の中のきらきらした物体を、私はもう持っているのだ。
それに気付けた私は、ないものねだりしていたときより、3ミリ新しい私だ。