「2020年5月9日。流行り病のせいで自室にいる時間が増えた。行きたいお店は軒並み臨時休業。暇だから読書と掃除を沢山した。1人で過ごすのは得意だけど制限されると急に息苦しい。こうやって文字に残しておいて、いつかいい思い出だねと言える日が来ればいいんだけど」
誰に勧められるわけでもなく、自然と日記を書くようになったのはこのくらいの時期だった。

過ごした日々を文字で残したいと思うようになったのは、顔を合わせて人と話す機会が減った反動だったのだろう。インターネット環境が当たり前に整備され、遠距離でも誰かとやりとりが可能になった現代とはいえ、直接人と会ってはいけない緊急事態の下ではどうしても寂しさと不安が拭えなかった。

不安定な情緒を出来るだけ丁寧な字で抑え込み、方眼に沿わせて並べることで自分を安心させた。それでもどうしようもなく落ち着かない時は、孤独を埋めてくれる他人の生きている言葉を求めて、恐る恐る外に出た。

急に店頭に積まれるようになった13世紀の世界史を綴った新書と、10歩歩くたびに目が合う消毒液ボトルのノズルたちが、自分以外の人間の動揺を如実に表していた。

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日記を書き始めて4年。お気に入りのリップがマスク裏に付いて落ち込む機会がようやく減ってきた。日記を書く習慣は未だに続いている。

ただし最近の日記は、行動を記録するというよりは日常で心に残ったことを書き留める意味合いが強くなっている。これに加えて、腰を据えて手帳に書き込む以外にスマートフォンのメモ機能を活用することも増えた。電車の中や眠る直前、思い立った時にすぐ打ち込めるのが便利で、なにか心に引っかかった時にとりあえずメモを開くようになった。

頻繁にメモを取るようになって気付いたことがある。それは、自分が思ったよりも様々なものに心を動かされているということだ。天気、植物、食事、音楽。文字に起こすことで、自分が生活の中であらゆるものと接点を持ち、それらに少しずつ影響を受けているのだと初めて知ることも多い。

心の動きを言葉や文字に変換することは、自分を認める行為なのだろう。私はこういう感覚をもって生きる人間なのだと整理して受け入れる作業なのだ。

逆に言えば、自分が何者か分からなくならないように、私たちは言葉を交わし文章を残す。時にそれは旋律を伴い、あるいはエッセイと名を変え、孤独を埋めようと他人の生きている言葉を求める人の元へ届く。

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友人が薦めてきたある曲の中では、スマートフォンに詩を書き溜める若者を「夢を見失った」と表現していた。私も、日記を書き始めた頃に一度「夢を見失った」のかもしれない。人と会えない。自由に出歩けない。必要不可欠な移動も若者というだけで疑心を抱かれる。家族や友人にもしものことがあるかもしれない。

画面上の悲劇が明日の我が身である可能性に怯えながら、一体なにに未来への活力を見出せばいいのか。こうなるんだったらあの時ああしていれば良かった。当たり前という贅沢を浪費していた自分への嫌悪が募り、夢がどうのこうのと考える間もなく、しまいには人は簡単に居なくなるなどと諦念と悟りまがいの極論が見えてしまうこともあった。

――だから、今を大事にしよう。孤独の中もがいた先の結論は、綺麗事だと昔毛嫌いしていたありきたりな言葉だった。

今この瞬間を大事にしたくて、今の自分を大事にしたくて、私は4年経った現在も言葉を書き溜めているんだと思う。「夢を見失った」若者たちは、もう一度夢を見たいがためにスマートフォンを握りしめて、自分の中からいつか生まれる希望を待ち続けているのだ。

かつて自己満足で終わっていた私のメモ書きたちも、最近ではメロディがついて歌詞と呼ばれる機会が出てきた。「あなたの書く詞が好き」と言ってくれる人がいることに日々感謝しつつも、あくまでも私が私を省みるための言葉たちであるという根本は変えずにいたいと考えている。

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現在では3万字を超えたスマートフォン内のメモ書きは、紙に書き起こせばせいぜい3ミリ程度の厚さだろう。けれども、この3ミリを生み出せた自分が今ではとても誇らしい。

周りは気付けない僅かな階段を大切に踏みしめた先、ほんの少しだけ開けた視界で、今を、自分を、夢を見つめていきたい。